私家版「科学哲学とは何か」

・・・あるいは、「お前何やってんの?」

「科学哲学」というあまり耳慣れない学問を専門にしてると、「それって何を研究する学問なんでしょうか?」と良く聞かれます。そのときはとりあえず、「科学を理解するための学問です」と答えることにしてます。でもたいていこれでは納得してくれません。「科学を理解する」ってどういうこと?そもそも科学自体が何かの理解なんじゃないの?

でもこの曖昧さって何も科学哲学に限った話じゃないですよね。「生物学とは生物を理解するための学問です」と言われたら、最初は「ああ、そうか」と頷くけど、でもよく考えてみればこの答えも今ひとつ曖昧。生物の「何を」理解するの?また何をもって「理解した」と言えるの?一口に「生物を理解する」といっても沢山の仕方がありますよね。庭を這ってるダンゴムシをみつけて、「こいつはどんな仕組みで動いているんだ」と考えるのも一つ。あるいは「いったいぜんたい、無機物しかなかった太古の地球から、どのような経緯でこんな複雑なモノが誕生したんだ」と問うのも一つ。もちろんこの二つの問いは無関係じゃないけど、それでも一応異なった理解のあり方を指し示している。実際、今日の学問分類では、前者のような問いは生理学や発生・分子生物学などといったいわゆる「ライフサイエンス」、後者の問いは進化遺伝学、古生物学や生態学などの進化系生物学で扱われるのが一般的です。

同様に、「科学を理解する」にも様々な方法がある。

まず、生物と同様、科学も様々なパーツ(法則・概念・測定・実験装置などなど)の複雑な絡み合いによって動いています。そうしたパーツが理論的にまとめ上げられることによって、ある現象が説明される。科学哲学の一つのゴールは、こうした科学の内的な「ロジック」ないし「メカニズム」をできるだけ明らかにすることです。この説明にはどんな概念・法則が使われているのか?理論的概念と観測された現象の間の依存関係は?ある学問分野に特有で、それを他と分けるような特徴は存在するのか?あるいは、すべての学問に共通するような「科学のロジック」のようなものはあるのか?

例えばポパーは、すべての科学は仮説の反証によって進む、だからすべての科学理論は反証可能でなければならない、と主張しました。これはいわば、「すべての生物はATGCからなるDNA塩基配列にその遺伝情報を有する」みたいな一般命題の科学哲学版だと言えます。つまり、(すべての)科学的営みはかくかくしかじかのものとして特徴付けられる、という仮説です。結局今ではポパーのこの考えはあまりうまく行かないということになってますが、それでも科学をその内的なロジックから理解しようという科学哲学の目的を良く表していると思います。

次に、別の視点からのアプローチとして、社会的、経済的、文化的コンテキストなどといった「科学外」の要因から科学の発展と活動を理解する試みがあります。再び生物の例を出せば、これはある生物種がどのような環境要因によって一定の形へと進化していったのか、という問いと似ています。つまり、科学をその内的なロジックからでなく、外界への反応として理解するのです。例えばパラダイム論で有名なクーンは、科学理論の変遷(「パラダイムシフト」)は論理的な反証によって引き起こされるのではなく、科学者コミュニティにおける心理的・社会的な要因(惰性や世代交代)に依るところが大きいと論じました。また近年ではダーウィン研究が盛んですが、その先鞭をつけたDesmond & Moore (1994)の『Darwin: The Life of a Tormented Evolutionist』は、進化論の着想をダーウィンの生きたビクトリア朝時代中産階級の文化・価値観から分析して話題になりました。

そんなわけで、一口に「科学を理解する」といっても複数のやり口があり、これが他の学問と同様、分野の多様性(あるいは「非一枚岩性」)を生み出しています。大まかに言って、狭義の科学哲学(Philosophy of science)では前者の内的アプローチ、一方で科学技術論(STS: Science and Technology Studies)では後者の外的アプローチが主流です。ただだからといって、両者が無関係であるというわけではもちろんありません。生物進化を理解するにはその生理・発生メカニズムを知っておく必要があるように、本来この二つのアプローチは最終的には統合される、ないしされるべきものなのかもしれません。ただ、既に科学という対象だけでも十分巨大なので、一人の学者が両者を自由に使いこなすのはなかなか難しい、というのが現状だと思います。

私自身の専門は前者の狭義の科学哲学、特に進化生物学を中心に扱っています(例が生き物ばっかりなのはそのためです)。だから、進化生物学の概念や理論を研究してます。でも、ちょっとまてよ。進化論がどんなロジックでどのように生物進化を説明するかを一番知っているのは、それを実際に使っている当の生物学者じゃないの?そこに門外漢の哲学者が介入する余地があるの?

これはもっともな問いで、実際、こうした理由から我々科学哲学者が科学者から煙たがれることは良くあります。しかも、一面においてこれは正しい。科学者は、自分のやっていることを熟知しているはずです。でもだからといって、その理解がすべてという訳ではない。

例えば、スポーツを実際にするのはスポーツ選手自身です。優秀なサッカー選手は、どうやったら的確にパスを出し、シュートをし、得点につなげられるかということを知ってなければならない。しかしその一方で、プロのスポーツ評論家、あるいはスポーツ科学というものがあります。こうした分野に携わる人は、必ずしも自身がスポーツ選手である必要はない。むしろ栄養学や生理学、医学、はたまた物理学や統計学の専門家で、最も効果的な戦略は何か、あるいはどのようにしたら選手が最高のパフォーマンスを出すことができるか、ということを研究します。いわば彼(女)らは、選手自身とは別の仕方で、スポーツについての知識を持っているわけです。そして実際のところ、現代スポーツはこうした複合知によって成り立っているとすら言えます。

私は、科学哲学にも同じような役割が期待できるのではないかと考えています。つまり、それは科学者当人とは別の仕方で、恐らく少し離れたところから、しかし包括的に、科学を理解できるのではないか、と。そう考えると、すごく興奮してきませんか?だって、哲学って煎じ詰めれば「知るとはどういうことか」を考える学問でしょ。で、科学っていうのは現代において一番大きい「知」の祭典、いわば世界中の天才・秀才たちが切磋琢磨した己の技を披露する知のオリンピックみたいなもんでしょ。それをアリーナ席で分析しながら、場合によってはその舞台裏にまで入っちゃう。これ以上に「知る」という営みに肉薄することが他にあるかしらん?

というわけで私個人としては、科学哲学はエキサイティングで、同時に役に立つ学問だと思うのです。正確を期せば、役に「立ち得る」でしょうか。「科学を論じる」といっても当然様々なレベルがあります。スポーツを論じるにしても、選手や監督自身もうならせる試合分析を見せる評論家がいる一方、外野からただあーだこーだとまくしたてる素人オヤジもいる。後者は居酒屋でやる分にはいいけど、実際のプレイヤーからしたらハタ迷惑以外の何ものでもないでしょう。科学哲学の現状はどちらか?正直な話、玉石混淆だと思います。実情に即した有益な考察がある一方、「ぼくのかんがえたさいきょうのかがくりろん」みたいなのも確かにある。いや、自分の分野を見回すとむしろこうしたのも結構ある。残念ながら、これが「科学哲学は無用いやむしろ有害」という一部科学者の評価に繋がっているのだと思います。これは真摯に受け止めなければならない。哲学徒の一人である私としては、こうした批判を受け止めた上で、科学と哲学のより有益な協同関係を目指して、努力していきたいと思っています。

 


 

2014.9.22 一部修正しました。

2014.9.23 思いの他沢山の方々に読んでいただいているようで光栄です。お礼ついでに、一つコメントを。最後の段落は、同時に「科学哲学を論じる人々」についての暗示になっていることをお忘れなく。巷には一部の極端なサンプルから全体を論じるような「ぼくのかんがえたさいきょうのかがくてつがく」が散見されますが、そういう決めつけは的外れな科学哲学と同じ位滑稽で無益であると言っておきます。「汝が深淵を覗くとき、深淵もまた汝を覗いているのだ」(・・・って科学哲学は深淵なのか?)

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