説明とは何か − (1) 目的論

前回記事では、科学哲学の目的は科学を理解することだ、と書きました。じゃあ具体的に科学者は何をしてるのでしょう。色々な物事を説明してます。じゃあ説明って何でしょう?ということで、今回は「説明とは何か」ということについて少し突っ込んで考えてみたいと思います。と思ったのですが、それだとあまりにもテーマが大きいので、少し分割して、今回は「目的論」について。目的論とは何か?物事をその目的から説明することです。っておいおい、いきなり「目的」かよ、全然科学的じゃないじゃん、と思われた方。そうでもないんですよ。実際、目的論的思考は、科学の発展と密接に結びついてきました。そのうちのいくつかは乗り越えられ、いくつかは生き残った。そう、今でも目的論的思考は息づいているのですよ。では、どんな仕方で?というのが今回のテーマです。

しかしその前に、そもそも、物事を説明するとはどういうことでしょうか。とりわけ「科学的に説明」するとは?アリストテレスはかつて、説明には四つの種類があると考えました。有名な四原因説です。例えば家が立つためには、まず風雨をしのぐという目的(目的因)があり、家の設計図(形相因)があり、素材(素材因)があり、そして大工仕事(作用因)がなければならない。これは人工物だけでなく、すべての事物がこれら四つの原理から生じる。だから説明とは、それら原理のうちのいくつかを特定することだ、という具合です。

しかし中世末期から近世になると、この見方にだんだん疑問がでてくるようになりました。というのも、アリストテレスの考えた自然観自体が、ガリレオを始めとした近代科学の萌芽によって揺らいできたからです。まずやり玉にあがったのが目的因です。アリストテレス的な見方では、目的因は人間の行為だけでなくすべての事象に存在します。モノが地面に落ちるのは、それが本来あるべき場所である地球=宇宙の中心に戻ろうとするためである、というように。ところがガリレオによって慣性(inertia=inactive)の概念が導入されると、単なる物体にそうした内的な目的を認めることが難しくなってきました。そしてニュートン力学の誕生を前後して、目的論的説明はほぼ完全に排除されるようになりました・・・少なくとも物理学(運動論)においては。

物理学はよろしい。問題はそれ以外です。例えば、生物の振る舞いは明らかにある種の目的に適っているいるように見えます。つまり生命現象は明らかに合目的的です。こうした現象はどのように説明されるのでしょうか?生物にだけ目的因を認める?しかし近世の思想家の多く(例えばデカルトやラ・メトリ)は、生命現象も基本的には機械仕掛けと変わらないはずだ、と考えました。といって彼らは、生命の合目的現象を機械的に説明する術を持っていなかった。ではこのギャップをどう埋めるか。

この問題に取り組んだのが、カントの『判断力批判』です*1。この著作の中でカントは、機械論的な世界観の中で、目的論がどのような役割を持ちうるかを考察しました。言い換えれば、この世界を動かす原理は基本的にニュートン力学的な衝突と引力だ、ということを認めた上で、なぜそれでも我々は目的論的思考に頼らざるを得ないのか、ということを考えました。

カントの答えは、かいつまんで言えば、目的論とは有用な発見法(heuristics)である、ということです。生命現象の問題は、それが思いっきり複雑で、粒子の衝突や引き合いのレベルでは到底まとまった法則性が確認できそうにない、ということでした。しかし「目的」という観点から見ると、そこに極めて整合的なパターンを確認することができます。「整合的なパターン」とかいうと大層な響きですが、要は我々が日常やっていることに過ぎません。例えば探偵ものとかで、最後に犯人の動機が明かされて、それで複数の伏線が一気に「線で繋がれる」ということがありますよね。あれで我々は納得するわけです、「あー、あれはそういうことだったのか」と。で、そのとき我々が何をやってるかというと、犯人の行動をその神経発火と筋肉運動から説明しているわけじゃなくて、もっと大局的に「その動機に叶う行為」という観点からまとめているわけです。バラバラだった事象が一つの動機=目的のもとで統合された。あー、すっきり、と。

カントの考えで重要なのが、そうした目的が「実際に事物を引き起こした」と考える必要はない、ということです。推理小説の場合は、確かに我々は犯人がある目的を遂行する、つまり目的に沿って彼(女)の行為を律するエージェントである、ということを知っています。だから目的は実際の原因だった。でも別にそうでなくても良いんです。例えば我々はコンピュータ相手に将棋を指す場合、どうしても意図を読み込もうとします。さては王手飛車取り狙ってるんだな、とか。でも恐らく、コンピュータは実際はそんな意思など持ってなくて、単にアルゴリズム上最も推奨される手を打っているだけかもしれません。でもいいんです。なぜなら、目的が実際の原因であるかどうかに関わらず、そうしたパターンを想定することで、相手が次に何を打ってくるかを大まかに予測することができるわけですから。これが、目的論は有用な発見法である、ということの意です*2

このカントの考えは、18世紀ドイツにおける近代生物学・比較解剖学の誕生、とりわけその立役者であるブルーメンバッハ(Blumenbach, 1752-1840)に大きな影響を与えました*3。カント的な目的論の生物学への適用のもう一つの好例は、同時代フランスにおける「比較解剖学の父」、キュヴィエ(Cuvier, 1769-1832)です。彼は、どんな未知の動物であっても、その歯の化石されあれば、その全体像を復元できると豪語しました。なぜそんなことが可能なのか?それは生物の各部分が、全体の適応的目的のために恊働しているからです。だから探偵が一つの手がかりから全体を推測していくように、歯の形からその生物の食性、暮らしぶり、そしてそれに適した形態、という仕方で推論していくことが可能だというわけです。

ここでも重要なのは、キュヴィエはそうした推論をするにあたり、なぜそうした推論がそもそも可能なのか、つまり生物の形態はなぜそもそも合目的なのか、ということは知らなかったということです。もちろん、ダーウィン進化論は当時まだありませんでしたし、かといって彼はキリスト教的な創造論を強く信奉していたわけではない。もしキュヴィエが、なんで生物の体は合目的的なの?と聞かれたら、そんなことは知らん、と答えたでしょう。これは裏を返せば、そんなことは知らずとも、つまり適応的目的が生物の形成の本当の原因であったかどうかには関わらず、実際にそういうパターンが幅広く確認される限り、そうしたパターンを用いて生物の各部分を推論・説明することは可能だった、ということです。

つまりカントは、説明に異なる二つの種類を認めたわけです。一つは、メカニズムに基づく因果的説明で、これは最終的にニュートン力学的な衝突と引力に還元されます。もう一つは、現象論的なパターンで、これは必ずしもメカニズムに裏打ちされているわけではないけど、バラバラの事象をまとめあげることで予測と理解に役立つ。カントは前者を構成的原理、後者を統制的原理と呼びました。その上で、目的論的説明は構成的原理ではないが、統制的原理としては有用であるとしたわけです。

ここには二つのメッセージがあります。一つは目的論は発見法としては有用であるので、その用法を守る限りにおいては使ってよろしい、というお墨付き。もう一つは、しかしそれはあくまで統制的原理としてであって、それを実際のメカニズムつまり構成的原理と取り違えてはならない、という警告です。しかしこの警告は守るのが非常に難しい。実際、カント以後の生物学の歴史においても、目的論的思考はしばしば発見法以上のものとして用いられてきました。それにはカントの後を継いだロマン主義思想家たち(フィヒテ、シェリング)の影響もあります。これら同時代の哲学思想に対応して、ブルーメンバッハ以降のドイツ生物学者、例えばキールメイヤー(Kielmeyer, 1765-1844)などは、生命の合目的性を生命固有の原理として解釈するようになりました*4。その他、カントのこの「禁則」を破ったことで有名な人物としては、20世紀の変わり目に活躍した発生学者ドリーシュ(Driesch)が挙げられます。

しかしこれも過去の話。進化論と分子生物学が発達した現代においては、もはや生命現象に物理学や化学に還元されない固有の原理があると考える人はほとんどいないでしょう。では、カントの目的論ももうお払い箱でしょうか?そんなこともなさそうです。前世紀後半の進化生物学における主要な論争の一つに、適応主義(adaptationism)論争があります。この論争の仕掛人となったグールド(Gould)とルウィントン(Lewontin)は、同時代(1979年)の進化生物学者は生物の形態や行動を説明するにあたり、もっぱらその適応的価値だけを問題にして、それ以外の要因(発生など)をなおざりにしている、と批判しました。形態や行動の適応的価値とは、つまりそれがその生物の生存と繁殖にどう寄与するか、ということです。これはキュヴィエがやったのと同様、生物をその目的から理解するということです。現代の我々は、そうした合目的性が、自然選択を通じて実際の進化の原因になりうる、ということを知っています。しかしそれは一つの可能性・仮説に過ぎません。実のところそうした合目的性はたまたま生じた副産物であって、実際の進化の原因ではなかったかもしれない。例えば我々の鼻は眼鏡を掛けるのに丁度都合良い形をしてるけれども、でもそのために進化してきたわけではない。それはたまたまそう役立っているに過ぎない。たしかにこれは極端な例です。でもある動物の行動がなにがしかの役に立っていることを確認して、そこから一足飛びに「だからそのためにこの行動は進化したのだろう」と結論するとき、我々は同じように滑稽なことをしているのではないか、そうグールドとルウィントンは指摘したわけです。

勘違いしてはいけないのは、グールドとルウィントンは自然選択説を否定しているわけでは全くありません。自然選択は進化における重要なファクターであり、それゆえに生物の形態や行動がどのような役に立っているかを観察することは、適応仮説を立てる上で強力な手段になります。問題は、それが時に強力すぎる、ということです。我々は、「Xがある目的のために役立っている」という事実から、「よってその目的のためにXが生じてきた」と推論することに抗い難い誘惑を感じます。つまりカント的にパラフレーズすれば、目的論の統制的使用から構成的使用へと容易にスリップしてしまう。しかし両者はあくまで別物であって、前者から後者を推論するためには、たとえ自然選択というメカニズムを受け入れたとしても、様々な検証を経なければならない。そうした検証があって初めて、合目的性は実際の進化の要因であった、ということができるわけです。

(ところでこれはえん罪事件などでもおなじみの構図ですよね・・・。松本サリン事件にせよ何にせよ、ある事件の容疑者が検挙されるや否や、警察&マスコミはもっともらしい動機を盛んに取り上げる。もちろん、これは発見法としては有用なのですが、人々は容易に動機の存在=犯行の原因のように決めつけてしまう。だから目的論の使用には細心の注意を払わなければならないのです。)

長くなってしまいましたが、まとめるとこういうことです。近世ヨーロッパでは、科学革命に伴って従来のアリストテレスの四原因説が舞台裏に退いていった。よってそれに代わる新しい説明体系、つまり物事を説明するとはそもそも一体どういうことか、ということを考え直す必要がでてきた。そこで出てきた候補の一つは、ニュートン力学に代表されるようなメカニズム・因果的説明。ただしこれだけだと複雑な生命現象を理解できない。そこでカントは、因果メカニズムとは別に、ある種の現象的なパターンも一つ説明として認めてやろうじゃないか、そして目的論というのはそうしたパターンの一種だと言えるんじゃないか、と考えた。そして、このカントが立てた統制的/構成的な目的論の区別およびその間の緊張関係が、それ以降の生物学の発展に影響を与え、またその中で繰り返しモチーフとして現れてきたわけです。もちろん、カントの考察は、まだ生物学(当時はこうした名称すらありませんでした)が生まれる以前の、そもそも生物はどのように説明されるべきかということかについてのスタンダードがない状況に答えたものでした。しかしそうしたパラダイムが確立した後でも、適応主義論争のように、ある説明方法や手法に対する懐疑が生じたときには、こうした根本への思考は有用たりうると私は思うのです。

・・・と、最後に宣伝ですが、こんな感じのことは昔こちらにも書きましたので興味があったら手に取ってみてくださいね!

それにしても、私はカント哲学徒でも何でもないんですが、それでもカントのこういう、同時代の科学的発展とがっぷり四つに組んでいこうとする態度にはシビれざるをえません。でもこれってカントだけじゃなくて、デカルトもスピノザもヒュームもライプニッツもみんなそうなんですよね。そう考えると、むしろ科学哲学こそ哲学の本流なんじゃないかと、私は密かに思っているわけです。それが最近では、哲学=非科学ないしは反科学的、みたいな風潮になってしまって、これはちょっと残念な誤解だと思っています。もちろん哲学にはそういう側面もあって、それはそれで悪くはないのですが、それだけが哲学ではないよ、と。このブログでは、合間合間にそういったことをゆるりと書いていければ・・・と考えています。

 


 

*1:え、カントって哲学者でしょ?科学関係ないじゃん、という方。天文学や地質学の仮説を立て(『天界の一般的自然史と理論』、「地震原因論」)、ニュートン力学の概念的基礎を考察し(『自然科学の形而上学的原理』)、ニセ科学を論じた(『視霊者の夢』)人が、科学哲学者じゃなくて何なんですか?

*2:つまり今風に言えば、デネットの「志向姿勢(intentional stance)」ですな。彼のアイデアがどの程度カントから来ているかは知りませんが。

*3:このあたりの歴史に関する古典どころは Lenoir, T. (1982). The Strategy of Life: Teleology and Mechanics in Nineteenth Century German. Springer でしょうか。

*4:例えば Nyhart, L. K. (1995). Biology Takes Form: Animal Morphology and the German Universities, 1800-1900. University Of Chicago Press.