Patrick Suppes (1922 – 2014)と測定理論

先日17日、スタンフォード大の科学哲学者、Patrick Suppes(スッピス)が亡くなられたとの報が入ってきました。享年92、ご高齢であったとはいえ、半年前にスタンフォードで行われたイベントではとてもお元気そうで、並みいる講演者を押しのけて誰よりも一番喋っていた(笑)ので、突然の知らせに驚きました。いずれにせよ、科学哲学界にとって大きすぎる損失であることには変わりません。

Suppesはいわゆる「ルネサンス型」の天才肌でした。彼が手がけた分野は、論理学、集合論、測定理論、確率の哲学、物理学の哲学、意思決定理論、言語学、心理学、脳神経科学、計算機科学など多岐にわたります。また彼はいち早く(60年代から!)、教育現場におけるコンピュータの活用に着目し終生それに携わってきた人でもあります。彼の全論文と、バイオグラフィーは彼のホームページからダウンロードできます。

私はSuppesとは直接的な面識はないのですが、ここしばらく彼の著作を読み込んでいたということもあり、自分の中では非常に大きなウェイトを占めていました。間違いなく、最も尊敬する同時代哲学者の一人でした。そんなわけで今回は、学恩を確認する意味も込めて、彼の仕事の一片、そのなかでも日本ではあまり知られていない測定理論について少し書いてみたいと思います。といっても、私はこの分野を専門とするわけでも、しっかりと理解しているわけでもないので、必然的に表面的、場合によっては不正確なものになるかもしれません。あくまで、自分の気持ちと理解を整理するためのメモ程度のものということで、あしからず。

さて、哲学者とはおよそ色々なものに興味を持つ人間ですが、その関心の一つに、「世界はどのように記述されるべきか」という問題があります。「自然は数学で記述されている」と言ったのはガリレオでした。当時これが何でそんなにセンセーショナルだったかというと、実はそれまでのアリストレス的な枠組みでは、数学とは純粋な観念世界あるいは我々の思考の産物であり、それが世界の客観的構造を映し出すなんてあり得ない、と考えられていたからです。こうした考えは、当時におけるザ・数学、ユークリッドの『原論』を見るとなんとなく納得できます。だって、「部分を持たないもの(=点)」とか「幅のない長さ(=線)」とか、我々の思考の外にあるはずがないじゃないですか?

そんなわけで、アリストレス的には数学でもって自然を記述するなんて御法度だったのが、ガリレオが物理運動は数学的に結構上手く記述できることを示しちゃった。でも何で上手くいったんでしょうか?なぜ「自然は数学で記述されている」の?これを字義通り取ったのがデカルトです。自然が数学で記述されているのは、神が世界を創造したときにそう創ったからだ、と。実のところデカルトによれば、神は世界だけでなく数学や論理自体も一緒に創っちゃったんですよね(いわゆる「永遠真理被造説」)。だから自然が数学で記されているのも当然っちゃあ当然*1。君のiMacにもiPhoneにもリンゴマークが刻まれてるのと同じ位当然。

しかしながら当然、現代に生きる我々としてはこの答えで満足するわけにはいかないわけです。だって誰も見てないですからね、神が微分してるとこ。では、もっと経験主義的な観点から、諸科学における数学の利用を正当化できないのか。測定理論は、こうした関心に答えるものです。

「自然が数学で記述されている」というのは、もうちょっと具体的に言うと、モノの性質が定量化できるということです。例えば、長さや重さといった性質。我々はやれ何センチだ、何キロだ、とか計っては一喜一憂するわけです。さらにそうした定量化された性質には、一定の数学的関係をしくことができます。例えば、最盛期の小錦関は舞の海関の3倍の体重があった、とか(適当です)。つまり y = 3x、ただしyは最盛期の小錦の体重、xは舞の海の体重とする、みたいな。

えー、で問題は、なんでこんな事が可能なのか?ということです。そんなん決まってる、定規や体重計で計ってるからだろ、と言われるかもしれません。じゃあ、定規で計る、とはどういうことでしょう?実のところ、我々が、何々はxメートルである、と言うときに最終的に意味しているのは、その何々とパリに保管されているメートル原器をx個つなげたものとを隣り合わせに置いたら、(ある誤差の範囲で)両者はピッタリと並ぶだろう、ということに他なりません。でも長さを計るたびにパリ旅行するわけにもいかないので(そうなったらいいけど)、我々はそのレプリカ(つまり定規)で代用しているわけです。

つまり何が言いたいかというと、最終的に、モノを計るということは、あるものと別のあるものを比較することに他ならないということです。長さだったら、両者を横並びにしてどちらが長いか決める。重さだったら、天秤を使う、というように。こういう作業を繰り返すことによって、物事の間の順序関係ができます。つまり小学校の背の順みたいなやつです。つまり、「~<」を「少なくとも同じだけ長い(高い)」とすると、クラスの全児童a, bについて a~<b ないし b~<a、という関係を得ることができるわけです。これが前提とするのは、クラス内のどのペアをとってきても、どちらの背が高いかを(タイを含めて)一意的に決めることができる、ということです。

長さに関してはそれ以外にも重要な性質があります。それは、メートル原器のところで見たように、モノの長さは繋ぎ合わす(concatinate)ことができる、という点です。つまり 「a君とb君を縦に並べたモノ」というモノが存在して(これをa&b君としましょう)、これについても長さを考えることができます。そして当然、この「a&b君合体物」がa君やb君単体より短いことはありません。つまり任意のa, bについてa&bが存在し、a ~< a&b かつ b ~< a&b。

このように、モノの長さとその比較という作業、つまり「測定」という作業には、どうやら一定の法則性がありそうです。これを、「モノの集合はその長さについて一定の公理を満たす」と言います。本当は上の二つの他にも要件・法則があるのですが、とにかくある系がこのような法則を満たすとする。測定理論のキモは、こうした現実の事物(例えば小学生)からなる系が、数、とりわけ実数の系と同じ構造をしていることを示す、ということにあります。かっちょ良く言うと、小学生系とある実数系の間に準同型写像(homomorphism)が成立する、と言います。そしてこうした準同型性を示す定理を、表現定理(representation theorem)と言います。

準同型写像は、児童一人一人にその身長としてある実数を割り当てる関数に他なりません。これをfとしましょう。f(a)はa君の身長です。これが準同型と呼ばれるのは、児童間の関係性、つまり「~<」が、実数間の大きさ関係である「=<」(同じかより大きい)と対応するからです。つまり任意のa, bについて、a ~< bのとき、そのときに限り、f(a) =< f(b) が成立するわけです。さらに足し算も使えます。つまり繋ぎ合わせ操作である「&」が、二つの数の足し算である「+」に対応するわけです。 つまり任意のa, b, cについて、a&b = cのとき、そのときに限り、f(a) + f(b) = f(c)。

このような次第で、準同型によって、小学生の集団とその間の関係性をあたかも数とその間の関係性として扱うことができるようになります。つまり小学生集団を数学によって記述できるのです。つまり、「なぜ自然が数学によって記述できるのか」という問いに対する測定理論からの回答は次の通りです。すなわち、「それは自然物のある集合(系)と特定の実数系の間の準同型性を示す表現定理が存在するからである。」*2

このように、測定という経験科学の極めて基礎的な問題を扱う測定理論。Suppesは60年代よりこの問題に取り組み、多くの重要な貢献をしました(ただし測定理論自体の歴史はもっと古く、19世紀後半のHelmholtzに遡ります)。とりわけ、Krantz, Luce, Tverskyと共著した三巻立てのFoundations of Measurement I, II, IIIは、現在の測定理論における金字塔となっています。実際、私の測定理論に関する知識はほぼここから来てます。この本、記述は地味ですがとても重要な哲学的問題が扱われている、と個人的に思っています。世界はなぜ数学で記述できるのか?とか、物理法則とは何か?とかが気になる向きには、ぜひ読んで頂きたいと思います。

さて、ここまで読んでいたただいた方(もしいれば、の話ですが)、「それにしても身長が数字で表されるなんてそれこそ小学生でも分かりきったことを延々と・・・哲学者ってよっぽど暇なのね」とか思ってませんか?まあ確かに測定理論はあまりパッと見が派手な分野ではありません。しかしそんなに「分かりきった」話でもないのですよ。もちろん、身長はつまらない例です。でも例えば、心的な指標、例えば「ストレス」や「うるささ」、「痛み」などはどうでしょうか?もともと、測定理論は心理学での種々の実験結果を扱うために発展してきたという歴史があります。つまり誤解を恐れずに言えば、ある分野が「科学化」されるか否かは、対応する測定理論が構築できるか否かにかかっている、という面もあるわけです。

つまり測定理論は、経験科学の礎であり、また同時にパイオニアとしての役割を持っているのです。そしてSuppesは、そのスピリットを体現するように、物理学、脳科学から計算機科学まで、様々な分野を横断して重要な仕事を残してきました。彼のような哲学者は、今後ちょっと出てこないのではないか、とすら思えてしまいます。それほどまでに偉大な才能でした。この場を借りて、心からご冥福をお祈りします。

 


 

*1:ここまでの話は、ほぼ全て私の京大時代の恩師の一人である小林道夫先生からの受け売りです。といっても、昔の曖昧な記憶で不正確な所もあると思うので、気になった方はぜひ先生のご著作を参照してください。

*2:実は、これは測定理論の一面に過ぎません。もう一つの重要な課題は、そうした実数系がどのような性質を持たなければならないかを規定する一意性定理(uniqueness theorem)の証明です。が、これについては別の機会に(あれば)。

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