レンズ職人としての科学哲学者

今、零下10度のニューヨークに来ています。半日時間ができたのでメトロポリタン美術館に行ってみたのですが、コレクションが凄くてびっくりしました。特にエジプト系、ファラオの墓の内壁そのまま持ってきたりとか、色々な意味で半端ないです。フェルメールも4つあったりとか(5つあるって話だったけど4つしか見つからなかった)、久しぶりに絵画鑑賞を満喫しました。

芸術作品は我々に異なった仕方で世界を見ることを教えてくれる、と述べたのはプルーストでしたが、美術館に来ると本当にそうだなと感じます。だってレンブラントの自画像とか、冷静に考えれば単なるおっさんじゃないですか。百歩譲ってセザンヌの静物画のリンゴだって、そこらへんで売ってるじゃないですか。なぜそれを有り難がって鑑賞するのか。恐らく、スーパーのリンゴにも中年のおっさんにも、実は美が宿っている、しかし我々凡才の目にはそれが隠されている、それを芸術家は発見して、我々にも分かるような形で示してくれるのでしょう。つまり我々は絵画という眼鏡を通して日常の美を発見するのです。

科学は芸術とは違うと言われるし、また実際そうでしょう。しかし一方で、似通っているところもあると思います。

科学は我々にいろいろなことを教えてくれます。例えば、地球は回ってるとか、マラリアは蚊によって媒介されるとか、まあそんな類いのことです。しかしそれだけではありません。科学はさらに、我々にモノの見方を提供します。つまり、各科学は独自の「世界観」を持ち、それにしたがって世界を描写します。我々は物理学を学ぶとき、そうした物理学の「眼鏡」を通して世界を見ることを学ぶのです。例えばニュートン物理学の「眼鏡」を通して見た世界は、粒子(質点)とその相互作用からなる世界です。そこに「生物」や「貨幣」といったモノは出てきません。それらを見るためには、生物学の眼鏡、経済学の眼鏡にかけ直さなければなりません。そしてそうした眼鏡で見た世界には、もちろんもはや「質点」は現れず、代わりに「真核生物」や「労働」などがでてくるのです。

「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える」と言いますが、これは多かれ少なかれ、科学を含めたほとんどの人間の認知活動に言えるのではないかと思います。むしろ良い大工(物理学者、化学者、etc.)になるためには、一度すべてを釘(慣性系、化学反応、etc.)として見るようにするための訓練が必要なのではないか、つまりその学問の「眼鏡」を通して世界を見るための訓練を積む必要があるのではないか。そして成熟した学者は、もはや自らの血肉と化したその「眼鏡」を通して見える世界のあり方を研究し、我々に教えてくれるわけです。

さて、で我々科学哲学者ですが、我々は何をしているかというと、その「眼鏡」を研究しているのです。つまり我々の直接の関心は、眼鏡を通して見える世界というより、むしろ科学者がかけている眼鏡自体の性質にあります。この眼鏡をかけると、どのような世界が見えるのか。そこには何が「ある」のか。この眼鏡で見る世界とその眼鏡で見る世界の間には、どのような関係があるのか。どんな眼鏡が「良い眼鏡」なのか。


たとえば、科学実在論という問題があります。この問題は、20世紀に入って物理学者がかけ始めた最新型の眼鏡に起因します。その眼鏡は大層クールで変わっていて、それをかけると「電子」やら「状態の重ね合わせ」やら、それはそれは不思議なものが見えるそうです*1。で、それをかけてはみんなで、「ほらここ電子が通ったでしょ、今波動関数が収縮したでしょ」とか言い合っていたわけなんですが、いったん眼鏡を外して見てみると、どうにもそのギャップがありすぎて、よくわからなくなってしまった。特に、量子力学の眼鏡で見た世界における「ある」ということと、裸眼で見た世界での「ある」ということが、なんか本当に同じなんだろうか、という疑問が生じてきたわけです。あのクールな眼鏡かけると見えるやつ、あれ本当にあるんだろうか、という。そもそも「ある」っていうのはどういう事なんだろうか、とか。

日常でもありますよね、なんかずっと視界に入るけど、あれ何なんだろう、みたいな時が。そういうとき我々はどうするか。眼鏡を外して点検するわけです。つまり眼鏡自体を見るわけです。物理学の哲学者も同じことをしました。つまり、一度かけたその眼鏡を外して、物理学という学問=眼鏡自体の構造を研究しはじめたのです。そうした研究を通して、物理学が描き出す世界を「解釈」しようというわけです。こうした考察を、メタな分析といいます。Metaphysicsのmeta。科学という眼鏡自体が持つ性質を研究することで、それがどのような像を結ぶかを明らかにし、またそこに映る世界を解釈する、これがメタ・サイエンスとしての科学哲学の役割の一つです。

もう一つ、科学哲学における主要な話題に、還元(reduction)というものがあります。これはいわば、異なる「科学眼鏡」をかけたときに見える世界の違いに関する問題です。例えば、ここに一匹のミドリムシがいたとしましょう。生物学の眼鏡で見ると、これは一つの真核生物、生化学的には化学反応の連鎖、物理学的には粒子のぶつかり合いとして表されるでしょう。ざっくり言うと還元とは、じゃあこうした描写は互いにどのように関係しているのか?という問題です。素朴にまず考えられるのは、「まあいろいろな見方があるけど、突き詰めれば全部粒子のぶつかり合いだよね」という立場です。我々の比喩に戻すと、「いろいろな眼鏡があるが、物理学の眼鏡が一番汎用性が高く、かつ精度が良い」という感じでしょうか。これは一般に物理主義(physicalism)と呼ばれる、すべては物理学に還元可能である、という立場です。一方これに対しては、「それぞれの眼鏡には長短があり、場合と用途に応じて使い分けるべきである、どれが一番というのはない」という多元主義(pluralism)の立場があります。

還元主義にまつわる議論がしばしば熱を帯びるのは、何らかの意味での「良さ」の考察を避けて通れないからです。それは物理主義でも多元主義でも同じ事です。これををさらにラディカルに突き詰めていくと、そもそもどうやって違う理論間の優劣を決めるのか?という問題に行き着きます。科学的世界観=眼鏡の「良さ」の客観的基準とは?結局どの科学も、さらには神話や「ニセ科学」も、それぞれ「モノの見方」にすぎなくて、その間に優劣はないのでは?いわゆる「相対主義」というやつです。類似問題として、ある分野において大幅な理論的変更が起こって、その前後で科学者が一斉に違う眼鏡をかけ始めたとき、我々はそれを改良といえるのかどうか、つまりいわゆる「パラダイム・シフト」あるいは「科学革命」の前後で科学は進歩したと言えるのか、という問題があります。

ここではこれらの問題に答えるのが目的ではありません。むしろ言いたいことは、そうした問いに答えるためには、「眼鏡」の一般的な構造と目的を良く理解しなければならない、ということです。つまり、科学とは何か、それはどうあるべきか、ということについての理解です。こうした理解は、単に科学と非科学を区別するだけでなく、実際の科学的実践においても重要になってきます。それはある新しい科学、つまり眼鏡が開発されたときです。例えばダーウィンの進化論は、単に内容だけでなく、その考え方においても新しいものでした。彼は進化論によって、生物の多様なあり方を「共通祖先からの進化」という新しい視点から分析することを提案したのです。しかし彼の理論は、観測や実験を主とする当時の科学のあり方とはかけ離れたものでした。生命の進化という一回きりの歴史的事象、しかも直接観察も実験もできない事象についての理論は、はたして科学と言えるのか?ダーウィンは彼の仮説が正真正銘の「科学」であることを示すために、同時代の科学哲学(例えばWhewellやHerschel)を援用することを厭いませんでした。つまり、彼らは科学=眼鏡とはかくあるべきだと言っている、そして自分の進化論はその基準を満たしている、だからそれは良い眼鏡なんだ、というように、自らの理論の「科学性」を正当化したわけです。


このように、科学哲学は決して机上の空論ではなく、まさに「現場で起こっている」ことなのです*2。「現場」とは、素粒子物理学とか脳神経科学とか、つまり一つ一つの科学分野です。そのため現代の科学哲学者は大抵、それぞれの「個別科学の哲学」を専門としています。例えば私は、進化生物学に関心があって、その概念的枠組みを研究しています。進化生物学では、1930年ごろに理論的な「総合」(Modern Synthesis)が起こり、ダーウィン進化論とメンデル遺伝学をベースに生命の進化を包括的に扱うための枠組みができました。それ以来、進化生物学は多かれ少なかれ、その「総合眼鏡」ないしその部分的改良版をかけて生物を研究してきました。なので私の第一の関心は、その眼鏡の性質と限界を明らかにすることです。また近年、進化生物学の内外から、この枠組みについていろいろな不満がでてきました。例えば、この眼鏡だと長いスパンでの進化予測ができない(遠目が効かない、みたいなもんでしょうか)とか、生物の発生に関することが全く見えないとか、そういうクレームです。そこでもう一つ新しい総合(New/extended Synthesis)が必要なんじゃないか、とかいう話もチラチラでてきています。しかしこういう議論は常に賛否両論がつきまといます。古くからの愛用者には、いや、俺の長年使ってた眼鏡に余計なことしてくれるな、という人もいるし、「見えない」といわれてるモノも実は眼鏡の問題じゃないんじゃないか、という可能性もある。これを見極めるためにも、現在使われている眼鏡を研究して、必要であれば改良を加えていく、ということが我々進化論の哲学者の使命の一つなんじゃないかと思っています。

つまり、レンズ職人としての科学哲学者。かつて17世紀の哲学者スピノザは、哲学研究の傍ら、科学者が実験で使うためのレンズを磨いて生活の足しにしていたと言われています。スピノザのレンズは、精度が良いということで重宝されていたようです。なにかここには、特別な意味があるように思えてなりません。つまり、哲学という営みは、科学の目を研ぎ澄ませていく作業とどこか深いところでつながっている、あるいはさらにいえば、それに何らかの意味で支えられているのではないか。

あ、でもこれには落ちがあって、実はスピノザはレンズ磨きの粉塵で肺をやられて夭折したとも言われてるんですよね。ということはひょっとしてこの話の真の教訓は、科学哲学なんてやってると早死にするぞ、っていうことだったり・・・。とはいっても前回ご紹介したSuppesにせよ、科学哲学者は結構しぶとく生きる(笑)ので、実際はそんな心配はあまりなさそうですが。

 

*1:そうです、というのは、恥ずかしながら私は実はまだちゃんとかけたことがないんです。

*2:実は今私がNYCにいるのも、イェール大学の生物学者を訪ねての帰り、つまり「フィールドワーク」の帰りです。