文化の内なる魚

投稿者: junotk

この文章は、京都大学文学部同窓会誌『以文』60号 (2017) に寄稿したものを転載したものです。


 

思いがけず、この4月から学部・院生時代を通してお世話になった哲学専修に戻ることになった。思いがけないというのは、「生物学の哲学」という日本ではまだ特殊でニッチな響きすらある自分の専門が、京大哲学の学風にマッチするとは思っていなかったからである。かような研究をしていると、どういう経緯でその分野を選んだのかとよく聞かれる。ここで、昔から生き物が好きで、とでも言えば話も収まるのだろうが、残念ながらそういうわけでもない。むしろ実際はまったくの偶然で、修士のとき、アメリカから来ていた当該分野の先生の公演を聞いて、ほうそんなものもあるのか、と興味をもったのが始まりであった。しかしそれを言い出したらそもそも哲学に関心をもったのも、単に楽だからと聞いて選択した高校の倫理の授業がきっかけだった。だから「生物」も「哲学」も、結局、偶然の産物といえる。しかし、学部時代に勉強していたスピノザに言わせれば、そう思えるのは単に私の認識の至らなさゆえであって、本当はすべてが必然なのかもしれない。仮にそうだとしても、有限な我々には物事はバラバラな点としてしか見えないのであって、それゆえそこに必然性の線を引きたくなるのであろう。

それは生物とて同じことである。生命の進化は、常に偶然に左右されてきた。我々人類を含む哺乳類がこれほど繁栄するようになったのも、6500万年ほど前にたまたま隕石が地球に衝突し、それまで地上を闊歩していた恐竜が絶滅してしまったからにすぎない。ダーウィンの種分化の理論と自然選択説は、このように偶然に支配される生物世界に、必然性の糸を通す法則である。その鮮やかな例の一つに、フォン・ベーアの法則と呼ばれるものがある。ヒトや鳥、魚など、多くの動物は、成体は非常に異なるにも関わらず、発生初期の胚を見るととても類似している。それは俗に言われるように、「個体発生が系統発生を繰り返す」からではない。むしろ有力な説によれば、これは進化が累積的に進むことの必然的帰結である。生物は、その場その場の環境において、それまでの発生過程に新たな段階を「積み上げる」ことで進化・分岐してきた。その結果、過去の進化の産物はどんどん発生初期に深く沈殿していき、幅広い種で保存されることになる。ちょうど、高く積んだ積み木の土台を動かすのが難しいように、古い形質は歴史によって深く踏み固められ、容易には変われない。こうして生じる異種間の相同性を、古生物学者のニール・シュービンは「我々の内なる魚」と呼んだ。

さてこの「踏み固め」、生物に限らず、およそ累積的な変化を経てきたシステムであれば、どこでも生じえる現象である。たとえば、会社や役所など、そこそこの歴史を持つ社会組織には、一見何のためか分からない取り決めがそこかしこにあって困惑するが、これもその組織の進化の中で踏み固められ、沈殿した過去の残滓だといえよう(私は別に某大学のことを言っているのではない)。

もっと広く視点をとってみれば、人類の文化や学問も、また絶え間ない変更を受けつつ綿々と継承されてきた進化の産物である。有史以来、いやそれ以前から、人類の知は複雑に進化し、多様に枝分かれしてきた。今日の我々の生活を支える社会制度や科学も、その枝の一つ一つである。こうした見方に立てば、一般に考えられている大学の役割は、この知の最前線、文化系統樹の枝先を、より高く広く育んでいくことだといえるだろう。しかし、それだけが大学の使命だろうか。生い茂る木の根元に目を落としてみれば、そこには我々の文明の祖先としての文化遺産がある。そうした歴史は、アウストラロピテクスのように、化石(資料)として当時の面影を残すのみで、そこに現代の華やかさはない。しかしそれは決して死に絶えたのではなく、むしろ文明の「内なる魚」として、現代文化の中に脈々と息づいているはずである。

私は、文学部の役割の一つは、このような文化の源流に陽の光を当て、その意義を明らかにしていくことだと思う。折しも今日、人文系学問は風当たりが強く、古典ばかり読んで何の役に立つのかというような揶揄もしばしば聞かれる。しかし仮に役に立たないとして(私自身は非常に役立つと思うのだが)、安易に取り去ってよいものだろうか。生物に話を戻してみれば、発生初期段階の異常は、大抵致死的である。前述したように、だからこそそうした形質は幅広い種において保存されてきたのである。長い進化の過程で残っているものは、たとえそれが必ずしも明らかでないとしても、それなりの理由があって残っている。その理由を明らかにすることが、進化生物学の使命である。だとすれば我々人文学者の使命は、現在に伝わる文化資産の意義を詳らかにしていくことだろう。願わくば、それが絶滅してしまう前に。それは決して、技術の進歩や画期的な発明にはつながらないかもしれないが、依然として重要な大学の役割だと、私は信じている。

 

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