大塚淳のサイト

カテゴリー: 科学哲学

レンズ職人としての科学哲学者

今、零下10度のニューヨークに来ています。半日時間ができたのでメトロポリタン美術館に行ってみたのですが、コレクションが凄くてびっくりしました。特にエジプト系、ファラオの墓の内壁そのまま持ってきたりとか、色々な意味で半端ないです。フェルメールも4つあったりとか(5つあるって話だったけど4つしか見つからなかった)、久しぶりに絵画鑑賞を満喫しました。

芸術作品は我々に異なった仕方で世界を見ることを教えてくれる、と述べたのはプルーストでしたが、美術館に来ると本当にそうだなと感じます。だってレンブラントの自画像とか、冷静に考えれば単なるおっさんじゃないですか。百歩譲ってセザンヌの静物画のリンゴだって、そこらへんで売ってるじゃないですか。なぜそれを有り難がって鑑賞するのか。恐らく、スーパーのリンゴにも中年のおっさんにも、実は美が宿っている、しかし我々凡才の目にはそれが隠されている、それを芸術家は発見して、我々にも分かるような形で示してくれるのでしょう。つまり我々は絵画という眼鏡を通して日常の美を発見するのです。

科学は芸術とは違うと言われるし、また実際そうでしょう。しかし一方で、似通っているところもあると思います。

科学は我々にいろいろなことを教えてくれます。例えば、地球は回ってるとか、マラリアは蚊によって媒介されるとか、まあそんな類いのことです。しかしそれだけではありません。科学はさらに、我々にモノの見方を提供します。つまり、各科学は独自の「世界観」を持ち、それにしたがって世界を描写します。我々は物理学を学ぶとき、そうした物理学の「眼鏡」を通して世界を見ることを学ぶのです。例えばニュートン物理学の「眼鏡」を通して見た世界は、粒子(質点)とその相互作用からなる世界です。そこに「生物」や「貨幣」といったモノは出てきません。それらを見るためには、生物学の眼鏡、経済学の眼鏡にかけ直さなければなりません。そしてそうした眼鏡で見た世界には、もちろんもはや「質点」は現れず、代わりに「真核生物」や「労働」などがでてくるのです。

「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える」と言いますが、これは多かれ少なかれ、科学を含めたほとんどの人間の認知活動に言えるのではないかと思います。むしろ良い大工(物理学者、化学者、etc.)になるためには、一度すべてを釘(慣性系、化学反応、etc.)として見るようにするための訓練が必要なのではないか、つまりその学問の「眼鏡」を通して世界を見るための訓練を積む必要があるのではないか。そして成熟した学者は、もはや自らの血肉と化したその「眼鏡」を通して見える世界のあり方を研究し、我々に教えてくれるわけです。

さて、で我々科学哲学者ですが、我々は何をしているかというと、その「眼鏡」を研究しているのです。つまり我々の直接の関心は、眼鏡を通して見える世界というより、むしろ科学者がかけている眼鏡自体の性質にあります。この眼鏡をかけると、どのような世界が見えるのか。そこには何が「ある」のか。この眼鏡で見る世界とその眼鏡で見る世界の間には、どのような関係があるのか。どんな眼鏡が「良い眼鏡」なのか。


たとえば、科学実在論という問題があります。この問題は、20世紀に入って物理学者がかけ始めた最新型の眼鏡に起因します。その眼鏡は大層クールで変わっていて、それをかけると「電子」やら「状態の重ね合わせ」やら、それはそれは不思議なものが見えるそうです*1。で、それをかけてはみんなで、「ほらここ電子が通ったでしょ、今波動関数が収縮したでしょ」とか言い合っていたわけなんですが、いったん眼鏡を外して見てみると、どうにもそのギャップがありすぎて、よくわからなくなってしまった。特に、量子力学の眼鏡で見た世界における「ある」ということと、裸眼で見た世界での「ある」ということが、なんか本当に同じなんだろうか、という疑問が生じてきたわけです。あのクールな眼鏡かけると見えるやつ、あれ本当にあるんだろうか、という。そもそも「ある」っていうのはどういう事なんだろうか、とか。

日常でもありますよね、なんかずっと視界に入るけど、あれ何なんだろう、みたいな時が。そういうとき我々はどうするか。眼鏡を外して点検するわけです。つまり眼鏡自体を見るわけです。物理学の哲学者も同じことをしました。つまり、一度かけたその眼鏡を外して、物理学という学問=眼鏡自体の構造を研究しはじめたのです。そうした研究を通して、物理学が描き出す世界を「解釈」しようというわけです。こうした考察を、メタな分析といいます。Metaphysicsのmeta。科学という眼鏡自体が持つ性質を研究することで、それがどのような像を結ぶかを明らかにし、またそこに映る世界を解釈する、これがメタ・サイエンスとしての科学哲学の役割の一つです。

もう一つ、科学哲学における主要な話題に、還元(reduction)というものがあります。これはいわば、異なる「科学眼鏡」をかけたときに見える世界の違いに関する問題です。例えば、ここに一匹のミドリムシがいたとしましょう。生物学の眼鏡で見ると、これは一つの真核生物、生化学的には化学反応の連鎖、物理学的には粒子のぶつかり合いとして表されるでしょう。ざっくり言うと還元とは、じゃあこうした描写は互いにどのように関係しているのか?という問題です。素朴にまず考えられるのは、「まあいろいろな見方があるけど、突き詰めれば全部粒子のぶつかり合いだよね」という立場です。我々の比喩に戻すと、「いろいろな眼鏡があるが、物理学の眼鏡が一番汎用性が高く、かつ精度が良い」という感じでしょうか。これは一般に物理主義(physicalism)と呼ばれる、すべては物理学に還元可能である、という立場です。一方これに対しては、「それぞれの眼鏡には長短があり、場合と用途に応じて使い分けるべきである、どれが一番というのはない」という多元主義(pluralism)の立場があります。

還元主義にまつわる議論がしばしば熱を帯びるのは、何らかの意味での「良さ」の考察を避けて通れないからです。それは物理主義でも多元主義でも同じ事です。これををさらにラディカルに突き詰めていくと、そもそもどうやって違う理論間の優劣を決めるのか?という問題に行き着きます。科学的世界観=眼鏡の「良さ」の客観的基準とは?結局どの科学も、さらには神話や「ニセ科学」も、それぞれ「モノの見方」にすぎなくて、その間に優劣はないのでは?いわゆる「相対主義」というやつです。類似問題として、ある分野において大幅な理論的変更が起こって、その前後で科学者が一斉に違う眼鏡をかけ始めたとき、我々はそれを改良といえるのかどうか、つまりいわゆる「パラダイム・シフト」あるいは「科学革命」の前後で科学は進歩したと言えるのか、という問題があります。

ここではこれらの問題に答えるのが目的ではありません。むしろ言いたいことは、そうした問いに答えるためには、「眼鏡」の一般的な構造と目的を良く理解しなければならない、ということです。つまり、科学とは何か、それはどうあるべきか、ということについての理解です。こうした理解は、単に科学と非科学を区別するだけでなく、実際の科学的実践においても重要になってきます。それはある新しい科学、つまり眼鏡が開発されたときです。例えばダーウィンの進化論は、単に内容だけでなく、その考え方においても新しいものでした。彼は進化論によって、生物の多様なあり方を「共通祖先からの進化」という新しい視点から分析することを提案したのです。しかし彼の理論は、観測や実験を主とする当時の科学のあり方とはかけ離れたものでした。生命の進化という一回きりの歴史的事象、しかも直接観察も実験もできない事象についての理論は、はたして科学と言えるのか?ダーウィンは彼の仮説が正真正銘の「科学」であることを示すために、同時代の科学哲学(例えばWhewellやHerschel)を援用することを厭いませんでした。つまり、彼らは科学=眼鏡とはかくあるべきだと言っている、そして自分の進化論はその基準を満たしている、だからそれは良い眼鏡なんだ、というように、自らの理論の「科学性」を正当化したわけです。


このように、科学哲学は決して机上の空論ではなく、まさに「現場で起こっている」ことなのです*2。「現場」とは、素粒子物理学とか脳神経科学とか、つまり一つ一つの科学分野です。そのため現代の科学哲学者は大抵、それぞれの「個別科学の哲学」を専門としています。例えば私は、進化生物学に関心があって、その概念的枠組みを研究しています。進化生物学では、1930年ごろに理論的な「総合」(Modern Synthesis)が起こり、ダーウィン進化論とメンデル遺伝学をベースに生命の進化を包括的に扱うための枠組みができました。それ以来、進化生物学は多かれ少なかれ、その「総合眼鏡」ないしその部分的改良版をかけて生物を研究してきました。なので私の第一の関心は、その眼鏡の性質と限界を明らかにすることです。また近年、進化生物学の内外から、この枠組みについていろいろな不満がでてきました。例えば、この眼鏡だと長いスパンでの進化予測ができない(遠目が効かない、みたいなもんでしょうか)とか、生物の発生に関することが全く見えないとか、そういうクレームです。そこでもう一つ新しい総合(New/extended Synthesis)が必要なんじゃないか、とかいう話もチラチラでてきています。しかしこういう議論は常に賛否両論がつきまといます。古くからの愛用者には、いや、俺の長年使ってた眼鏡に余計なことしてくれるな、という人もいるし、「見えない」といわれてるモノも実は眼鏡の問題じゃないんじゃないか、という可能性もある。これを見極めるためにも、現在使われている眼鏡を研究して、必要であれば改良を加えていく、ということが我々進化論の哲学者の使命の一つなんじゃないかと思っています。

つまり、レンズ職人としての科学哲学者。かつて17世紀の哲学者スピノザは、哲学研究の傍ら、科学者が実験で使うためのレンズを磨いて生活の足しにしていたと言われています。スピノザのレンズは、精度が良いということで重宝されていたようです。なにかここには、特別な意味があるように思えてなりません。つまり、哲学という営みは、科学の目を研ぎ澄ませていく作業とどこか深いところでつながっている、あるいはさらにいえば、それに何らかの意味で支えられているのではないか。

あ、でもこれには落ちがあって、実はスピノザはレンズ磨きの粉塵で肺をやられて夭折したとも言われてるんですよね。ということはひょっとしてこの話の真の教訓は、科学哲学なんてやってると早死にするぞ、っていうことだったり・・・。とはいっても前回ご紹介したSuppesにせよ、科学哲学者は結構しぶとく生きる(笑)ので、実際はそんな心配はあまりなさそうですが。

 

*1:そうです、というのは、恥ずかしながら私は実はまだちゃんとかけたことがないんです。

*2:実は今私がNYCにいるのも、イェール大学の生物学者を訪ねての帰り、つまり「フィールドワーク」の帰りです。

Patrick Suppes (1922 – 2014)と測定理論

先日17日、スタンフォード大の科学哲学者、Patrick Suppes(スッピス)が亡くなられたとの報が入ってきました。享年92、ご高齢であったとはいえ、半年前にスタンフォードで行われたイベントではとてもお元気そうで、並みいる講演者を押しのけて誰よりも一番喋っていた(笑)ので、突然の知らせに驚きました。いずれにせよ、科学哲学界にとって大きすぎる損失であることには変わりません。

Suppesはいわゆる「ルネサンス型」の天才肌でした。彼が手がけた分野は、論理学、集合論、測定理論、確率の哲学、物理学の哲学、意思決定理論、言語学、心理学、脳神経科学、計算機科学など多岐にわたります。また彼はいち早く(60年代から!)、教育現場におけるコンピュータの活用に着目し終生それに携わってきた人でもあります。彼の全論文と、バイオグラフィーは彼のホームページからダウンロードできます。

私はSuppesとは直接的な面識はないのですが、ここしばらく彼の著作を読み込んでいたということもあり、自分の中では非常に大きなウェイトを占めていました。間違いなく、最も尊敬する同時代哲学者の一人でした。そんなわけで今回は、学恩を確認する意味も込めて、彼の仕事の一片、そのなかでも日本ではあまり知られていない測定理論について少し書いてみたいと思います。といっても、私はこの分野を専門とするわけでも、しっかりと理解しているわけでもないので、必然的に表面的、場合によっては不正確なものになるかもしれません。あくまで、自分の気持ちと理解を整理するためのメモ程度のものということで、あしからず。

さて、哲学者とはおよそ色々なものに興味を持つ人間ですが、その関心の一つに、「世界はどのように記述されるべきか」という問題があります。「自然は数学で記述されている」と言ったのはガリレオでした。当時これが何でそんなにセンセーショナルだったかというと、実はそれまでのアリストレス的な枠組みでは、数学とは純粋な観念世界あるいは我々の思考の産物であり、それが世界の客観的構造を映し出すなんてあり得ない、と考えられていたからです。こうした考えは、当時におけるザ・数学、ユークリッドの『原論』を見るとなんとなく納得できます。だって、「部分を持たないもの(=点)」とか「幅のない長さ(=線)」とか、我々の思考の外にあるはずがないじゃないですか?

そんなわけで、アリストレス的には数学でもって自然を記述するなんて御法度だったのが、ガリレオが物理運動は数学的に結構上手く記述できることを示しちゃった。でも何で上手くいったんでしょうか?なぜ「自然は数学で記述されている」の?これを字義通り取ったのがデカルトです。自然が数学で記述されているのは、神が世界を創造したときにそう創ったからだ、と。実のところデカルトによれば、神は世界だけでなく数学や論理自体も一緒に創っちゃったんですよね(いわゆる「永遠真理被造説」)。だから自然が数学で記されているのも当然っちゃあ当然*1。君のiMacにもiPhoneにもリンゴマークが刻まれてるのと同じ位当然。

しかしながら当然、現代に生きる我々としてはこの答えで満足するわけにはいかないわけです。だって誰も見てないですからね、神が微分してるとこ。では、もっと経験主義的な観点から、諸科学における数学の利用を正当化できないのか。測定理論は、こうした関心に答えるものです。

「自然が数学で記述されている」というのは、もうちょっと具体的に言うと、モノの性質が定量化できるということです。例えば、長さや重さといった性質。我々はやれ何センチだ、何キロだ、とか計っては一喜一憂するわけです。さらにそうした定量化された性質には、一定の数学的関係をしくことができます。例えば、最盛期の小錦関は舞の海関の3倍の体重があった、とか(適当です)。つまり y = 3x、ただしyは最盛期の小錦の体重、xは舞の海の体重とする、みたいな。

えー、で問題は、なんでこんな事が可能なのか?ということです。そんなん決まってる、定規や体重計で計ってるからだろ、と言われるかもしれません。じゃあ、定規で計る、とはどういうことでしょう?実のところ、我々が、何々はxメートルである、と言うときに最終的に意味しているのは、その何々とパリに保管されているメートル原器をx個つなげたものとを隣り合わせに置いたら、(ある誤差の範囲で)両者はピッタリと並ぶだろう、ということに他なりません。でも長さを計るたびにパリ旅行するわけにもいかないので(そうなったらいいけど)、我々はそのレプリカ(つまり定規)で代用しているわけです。

つまり何が言いたいかというと、最終的に、モノを計るということは、あるものと別のあるものを比較することに他ならないということです。長さだったら、両者を横並びにしてどちらが長いか決める。重さだったら、天秤を使う、というように。こういう作業を繰り返すことによって、物事の間の順序関係ができます。つまり小学校の背の順みたいなやつです。つまり、「~<」を「少なくとも同じだけ長い(高い)」とすると、クラスの全児童a, bについて a~<b ないし b~<a、という関係を得ることができるわけです。これが前提とするのは、クラス内のどのペアをとってきても、どちらの背が高いかを(タイを含めて)一意的に決めることができる、ということです。

長さに関してはそれ以外にも重要な性質があります。それは、メートル原器のところで見たように、モノの長さは繋ぎ合わす(concatinate)ことができる、という点です。つまり 「a君とb君を縦に並べたモノ」というモノが存在して(これをa&b君としましょう)、これについても長さを考えることができます。そして当然、この「a&b君合体物」がa君やb君単体より短いことはありません。つまり任意のa, bについてa&bが存在し、a ~< a&b かつ b ~< a&b。

このように、モノの長さとその比較という作業、つまり「測定」という作業には、どうやら一定の法則性がありそうです。これを、「モノの集合はその長さについて一定の公理を満たす」と言います。本当は上の二つの他にも要件・法則があるのですが、とにかくある系がこのような法則を満たすとする。測定理論のキモは、こうした現実の事物(例えば小学生)からなる系が、数、とりわけ実数の系と同じ構造をしていることを示す、ということにあります。かっちょ良く言うと、小学生系とある実数系の間に準同型写像(homomorphism)が成立する、と言います。そしてこうした準同型性を示す定理を、表現定理(representation theorem)と言います。

準同型写像は、児童一人一人にその身長としてある実数を割り当てる関数に他なりません。これをfとしましょう。f(a)はa君の身長です。これが準同型と呼ばれるのは、児童間の関係性、つまり「~<」が、実数間の大きさ関係である「=<」(同じかより大きい)と対応するからです。つまり任意のa, bについて、a ~< bのとき、そのときに限り、f(a) =< f(b) が成立するわけです。さらに足し算も使えます。つまり繋ぎ合わせ操作である「&」が、二つの数の足し算である「+」に対応するわけです。 つまり任意のa, b, cについて、a&b = cのとき、そのときに限り、f(a) + f(b) = f(c)。

このような次第で、準同型によって、小学生の集団とその間の関係性をあたかも数とその間の関係性として扱うことができるようになります。つまり小学生集団を数学によって記述できるのです。つまり、「なぜ自然が数学によって記述できるのか」という問いに対する測定理論からの回答は次の通りです。すなわち、「それは自然物のある集合(系)と特定の実数系の間の準同型性を示す表現定理が存在するからである。」*2

このように、測定という経験科学の極めて基礎的な問題を扱う測定理論。Suppesは60年代よりこの問題に取り組み、多くの重要な貢献をしました(ただし測定理論自体の歴史はもっと古く、19世紀後半のHelmholtzに遡ります)。とりわけ、Krantz, Luce, Tverskyと共著した三巻立てのFoundations of Measurement I, II, IIIは、現在の測定理論における金字塔となっています。実際、私の測定理論に関する知識はほぼここから来てます。この本、記述は地味ですがとても重要な哲学的問題が扱われている、と個人的に思っています。世界はなぜ数学で記述できるのか?とか、物理法則とは何か?とかが気になる向きには、ぜひ読んで頂きたいと思います。

さて、ここまで読んでいたただいた方(もしいれば、の話ですが)、「それにしても身長が数字で表されるなんてそれこそ小学生でも分かりきったことを延々と・・・哲学者ってよっぽど暇なのね」とか思ってませんか?まあ確かに測定理論はあまりパッと見が派手な分野ではありません。しかしそんなに「分かりきった」話でもないのですよ。もちろん、身長はつまらない例です。でも例えば、心的な指標、例えば「ストレス」や「うるささ」、「痛み」などはどうでしょうか?もともと、測定理論は心理学での種々の実験結果を扱うために発展してきたという歴史があります。つまり誤解を恐れずに言えば、ある分野が「科学化」されるか否かは、対応する測定理論が構築できるか否かにかかっている、という面もあるわけです。

つまり測定理論は、経験科学の礎であり、また同時にパイオニアとしての役割を持っているのです。そしてSuppesは、そのスピリットを体現するように、物理学、脳科学から計算機科学まで、様々な分野を横断して重要な仕事を残してきました。彼のような哲学者は、今後ちょっと出てこないのではないか、とすら思えてしまいます。それほどまでに偉大な才能でした。この場を借りて、心からご冥福をお祈りします。

 


 

*1:ここまでの話は、ほぼ全て私の京大時代の恩師の一人である小林道夫先生からの受け売りです。といっても、昔の曖昧な記憶で不正確な所もあると思うので、気になった方はぜひ先生のご著作を参照してください。

*2:実は、これは測定理論の一面に過ぎません。もう一つの重要な課題は、そうした実数系がどのような性質を持たなければならないかを規定する一意性定理(uniqueness theorem)の証明です。が、これについては別の機会に(あれば)。

説明とは何か − (1) 目的論

前回記事では、科学哲学の目的は科学を理解することだ、と書きました。じゃあ具体的に科学者は何をしてるのでしょう。色々な物事を説明してます。じゃあ説明って何でしょう?ということで、今回は「説明とは何か」ということについて少し突っ込んで考えてみたいと思います。と思ったのですが、それだとあまりにもテーマが大きいので、少し分割して、今回は「目的論」について。目的論とは何か?物事をその目的から説明することです。っておいおい、いきなり「目的」かよ、全然科学的じゃないじゃん、と思われた方。そうでもないんですよ。実際、目的論的思考は、科学の発展と密接に結びついてきました。そのうちのいくつかは乗り越えられ、いくつかは生き残った。そう、今でも目的論的思考は息づいているのですよ。では、どんな仕方で?というのが今回のテーマです。

しかしその前に、そもそも、物事を説明するとはどういうことでしょうか。とりわけ「科学的に説明」するとは?アリストテレスはかつて、説明には四つの種類があると考えました。有名な四原因説です。例えば家が立つためには、まず風雨をしのぐという目的(目的因)があり、家の設計図(形相因)があり、素材(素材因)があり、そして大工仕事(作用因)がなければならない。これは人工物だけでなく、すべての事物がこれら四つの原理から生じる。だから説明とは、それら原理のうちのいくつかを特定することだ、という具合です。

しかし中世末期から近世になると、この見方にだんだん疑問がでてくるようになりました。というのも、アリストテレスの考えた自然観自体が、ガリレオを始めとした近代科学の萌芽によって揺らいできたからです。まずやり玉にあがったのが目的因です。アリストテレス的な見方では、目的因は人間の行為だけでなくすべての事象に存在します。モノが地面に落ちるのは、それが本来あるべき場所である地球=宇宙の中心に戻ろうとするためである、というように。ところがガリレオによって慣性(inertia=inactive)の概念が導入されると、単なる物体にそうした内的な目的を認めることが難しくなってきました。そしてニュートン力学の誕生を前後して、目的論的説明はほぼ完全に排除されるようになりました・・・少なくとも物理学(運動論)においては。

物理学はよろしい。問題はそれ以外です。例えば、生物の振る舞いは明らかにある種の目的に適っているいるように見えます。つまり生命現象は明らかに合目的的です。こうした現象はどのように説明されるのでしょうか?生物にだけ目的因を認める?しかし近世の思想家の多く(例えばデカルトやラ・メトリ)は、生命現象も基本的には機械仕掛けと変わらないはずだ、と考えました。といって彼らは、生命の合目的現象を機械的に説明する術を持っていなかった。ではこのギャップをどう埋めるか。

この問題に取り組んだのが、カントの『判断力批判』です*1。この著作の中でカントは、機械論的な世界観の中で、目的論がどのような役割を持ちうるかを考察しました。言い換えれば、この世界を動かす原理は基本的にニュートン力学的な衝突と引力だ、ということを認めた上で、なぜそれでも我々は目的論的思考に頼らざるを得ないのか、ということを考えました。

カントの答えは、かいつまんで言えば、目的論とは有用な発見法(heuristics)である、ということです。生命現象の問題は、それが思いっきり複雑で、粒子の衝突や引き合いのレベルでは到底まとまった法則性が確認できそうにない、ということでした。しかし「目的」という観点から見ると、そこに極めて整合的なパターンを確認することができます。「整合的なパターン」とかいうと大層な響きですが、要は我々が日常やっていることに過ぎません。例えば探偵ものとかで、最後に犯人の動機が明かされて、それで複数の伏線が一気に「線で繋がれる」ということがありますよね。あれで我々は納得するわけです、「あー、あれはそういうことだったのか」と。で、そのとき我々が何をやってるかというと、犯人の行動をその神経発火と筋肉運動から説明しているわけじゃなくて、もっと大局的に「その動機に叶う行為」という観点からまとめているわけです。バラバラだった事象が一つの動機=目的のもとで統合された。あー、すっきり、と。

カントの考えで重要なのが、そうした目的が「実際に事物を引き起こした」と考える必要はない、ということです。推理小説の場合は、確かに我々は犯人がある目的を遂行する、つまり目的に沿って彼(女)の行為を律するエージェントである、ということを知っています。だから目的は実際の原因だった。でも別にそうでなくても良いんです。例えば我々はコンピュータ相手に将棋を指す場合、どうしても意図を読み込もうとします。さては王手飛車取り狙ってるんだな、とか。でも恐らく、コンピュータは実際はそんな意思など持ってなくて、単にアルゴリズム上最も推奨される手を打っているだけかもしれません。でもいいんです。なぜなら、目的が実際の原因であるかどうかに関わらず、そうしたパターンを想定することで、相手が次に何を打ってくるかを大まかに予測することができるわけですから。これが、目的論は有用な発見法である、ということの意です*2

このカントの考えは、18世紀ドイツにおける近代生物学・比較解剖学の誕生、とりわけその立役者であるブルーメンバッハ(Blumenbach, 1752-1840)に大きな影響を与えました*3。カント的な目的論の生物学への適用のもう一つの好例は、同時代フランスにおける「比較解剖学の父」、キュヴィエ(Cuvier, 1769-1832)です。彼は、どんな未知の動物であっても、その歯の化石されあれば、その全体像を復元できると豪語しました。なぜそんなことが可能なのか?それは生物の各部分が、全体の適応的目的のために恊働しているからです。だから探偵が一つの手がかりから全体を推測していくように、歯の形からその生物の食性、暮らしぶり、そしてそれに適した形態、という仕方で推論していくことが可能だというわけです。

ここでも重要なのは、キュヴィエはそうした推論をするにあたり、なぜそうした推論がそもそも可能なのか、つまり生物の形態はなぜそもそも合目的なのか、ということは知らなかったということです。もちろん、ダーウィン進化論は当時まだありませんでしたし、かといって彼はキリスト教的な創造論を強く信奉していたわけではない。もしキュヴィエが、なんで生物の体は合目的的なの?と聞かれたら、そんなことは知らん、と答えたでしょう。これは裏を返せば、そんなことは知らずとも、つまり適応的目的が生物の形成の本当の原因であったかどうかには関わらず、実際にそういうパターンが幅広く確認される限り、そうしたパターンを用いて生物の各部分を推論・説明することは可能だった、ということです。

つまりカントは、説明に異なる二つの種類を認めたわけです。一つは、メカニズムに基づく因果的説明で、これは最終的にニュートン力学的な衝突と引力に還元されます。もう一つは、現象論的なパターンで、これは必ずしもメカニズムに裏打ちされているわけではないけど、バラバラの事象をまとめあげることで予測と理解に役立つ。カントは前者を構成的原理、後者を統制的原理と呼びました。その上で、目的論的説明は構成的原理ではないが、統制的原理としては有用であるとしたわけです。

ここには二つのメッセージがあります。一つは目的論は発見法としては有用であるので、その用法を守る限りにおいては使ってよろしい、というお墨付き。もう一つは、しかしそれはあくまで統制的原理としてであって、それを実際のメカニズムつまり構成的原理と取り違えてはならない、という警告です。しかしこの警告は守るのが非常に難しい。実際、カント以後の生物学の歴史においても、目的論的思考はしばしば発見法以上のものとして用いられてきました。それにはカントの後を継いだロマン主義思想家たち(フィヒテ、シェリング)の影響もあります。これら同時代の哲学思想に対応して、ブルーメンバッハ以降のドイツ生物学者、例えばキールメイヤー(Kielmeyer, 1765-1844)などは、生命の合目的性を生命固有の原理として解釈するようになりました*4。その他、カントのこの「禁則」を破ったことで有名な人物としては、20世紀の変わり目に活躍した発生学者ドリーシュ(Driesch)が挙げられます。

しかしこれも過去の話。進化論と分子生物学が発達した現代においては、もはや生命現象に物理学や化学に還元されない固有の原理があると考える人はほとんどいないでしょう。では、カントの目的論ももうお払い箱でしょうか?そんなこともなさそうです。前世紀後半の進化生物学における主要な論争の一つに、適応主義(adaptationism)論争があります。この論争の仕掛人となったグールド(Gould)とルウィントン(Lewontin)は、同時代(1979年)の進化生物学者は生物の形態や行動を説明するにあたり、もっぱらその適応的価値だけを問題にして、それ以外の要因(発生など)をなおざりにしている、と批判しました。形態や行動の適応的価値とは、つまりそれがその生物の生存と繁殖にどう寄与するか、ということです。これはキュヴィエがやったのと同様、生物をその目的から理解するということです。現代の我々は、そうした合目的性が、自然選択を通じて実際の進化の原因になりうる、ということを知っています。しかしそれは一つの可能性・仮説に過ぎません。実のところそうした合目的性はたまたま生じた副産物であって、実際の進化の原因ではなかったかもしれない。例えば我々の鼻は眼鏡を掛けるのに丁度都合良い形をしてるけれども、でもそのために進化してきたわけではない。それはたまたまそう役立っているに過ぎない。たしかにこれは極端な例です。でもある動物の行動がなにがしかの役に立っていることを確認して、そこから一足飛びに「だからそのためにこの行動は進化したのだろう」と結論するとき、我々は同じように滑稽なことをしているのではないか、そうグールドとルウィントンは指摘したわけです。

勘違いしてはいけないのは、グールドとルウィントンは自然選択説を否定しているわけでは全くありません。自然選択は進化における重要なファクターであり、それゆえに生物の形態や行動がどのような役に立っているかを観察することは、適応仮説を立てる上で強力な手段になります。問題は、それが時に強力すぎる、ということです。我々は、「Xがある目的のために役立っている」という事実から、「よってその目的のためにXが生じてきた」と推論することに抗い難い誘惑を感じます。つまりカント的にパラフレーズすれば、目的論の統制的使用から構成的使用へと容易にスリップしてしまう。しかし両者はあくまで別物であって、前者から後者を推論するためには、たとえ自然選択というメカニズムを受け入れたとしても、様々な検証を経なければならない。そうした検証があって初めて、合目的性は実際の進化の要因であった、ということができるわけです。

(ところでこれはえん罪事件などでもおなじみの構図ですよね・・・。松本サリン事件にせよ何にせよ、ある事件の容疑者が検挙されるや否や、警察&マスコミはもっともらしい動機を盛んに取り上げる。もちろん、これは発見法としては有用なのですが、人々は容易に動機の存在=犯行の原因のように決めつけてしまう。だから目的論の使用には細心の注意を払わなければならないのです。)

長くなってしまいましたが、まとめるとこういうことです。近世ヨーロッパでは、科学革命に伴って従来のアリストテレスの四原因説が舞台裏に退いていった。よってそれに代わる新しい説明体系、つまり物事を説明するとはそもそも一体どういうことか、ということを考え直す必要がでてきた。そこで出てきた候補の一つは、ニュートン力学に代表されるようなメカニズム・因果的説明。ただしこれだけだと複雑な生命現象を理解できない。そこでカントは、因果メカニズムとは別に、ある種の現象的なパターンも一つ説明として認めてやろうじゃないか、そして目的論というのはそうしたパターンの一種だと言えるんじゃないか、と考えた。そして、このカントが立てた統制的/構成的な目的論の区別およびその間の緊張関係が、それ以降の生物学の発展に影響を与え、またその中で繰り返しモチーフとして現れてきたわけです。もちろん、カントの考察は、まだ生物学(当時はこうした名称すらありませんでした)が生まれる以前の、そもそも生物はどのように説明されるべきかということかについてのスタンダードがない状況に答えたものでした。しかしそうしたパラダイムが確立した後でも、適応主義論争のように、ある説明方法や手法に対する懐疑が生じたときには、こうした根本への思考は有用たりうると私は思うのです。

・・・と、最後に宣伝ですが、こんな感じのことは昔こちらにも書きましたので興味があったら手に取ってみてくださいね!

それにしても、私はカント哲学徒でも何でもないんですが、それでもカントのこういう、同時代の科学的発展とがっぷり四つに組んでいこうとする態度にはシビれざるをえません。でもこれってカントだけじゃなくて、デカルトもスピノザもヒュームもライプニッツもみんなそうなんですよね。そう考えると、むしろ科学哲学こそ哲学の本流なんじゃないかと、私は密かに思っているわけです。それが最近では、哲学=非科学ないしは反科学的、みたいな風潮になってしまって、これはちょっと残念な誤解だと思っています。もちろん哲学にはそういう側面もあって、それはそれで悪くはないのですが、それだけが哲学ではないよ、と。このブログでは、合間合間にそういったことをゆるりと書いていければ・・・と考えています。

 


 

*1:え、カントって哲学者でしょ?科学関係ないじゃん、という方。天文学や地質学の仮説を立て(『天界の一般的自然史と理論』、「地震原因論」)、ニュートン力学の概念的基礎を考察し(『自然科学の形而上学的原理』)、ニセ科学を論じた(『視霊者の夢』)人が、科学哲学者じゃなくて何なんですか?

*2:つまり今風に言えば、デネットの「志向姿勢(intentional stance)」ですな。彼のアイデアがどの程度カントから来ているかは知りませんが。

*3:このあたりの歴史に関する古典どころは Lenoir, T. (1982). The Strategy of Life: Teleology and Mechanics in Nineteenth Century German. Springer でしょうか。

*4:例えば Nyhart, L. K. (1995). Biology Takes Form: Animal Morphology and the German Universities, 1800-1900. University Of Chicago Press.

私家版「科学哲学とは何か」

・・・あるいは、「お前何やってんの?」

「科学哲学」というあまり耳慣れない学問を専門にしてると、「それって何を研究する学問なんでしょうか?」と良く聞かれます。そのときはとりあえず、「科学を理解するための学問です」と答えることにしてます。でもたいていこれでは納得してくれません。「科学を理解する」ってどういうこと?そもそも科学自体が何かの理解なんじゃないの?

でもこの曖昧さって何も科学哲学に限った話じゃないですよね。「生物学とは生物を理解するための学問です」と言われたら、最初は「ああ、そうか」と頷くけど、でもよく考えてみればこの答えも今ひとつ曖昧。生物の「何を」理解するの?また何をもって「理解した」と言えるの?一口に「生物を理解する」といっても沢山の仕方がありますよね。庭を這ってるダンゴムシをみつけて、「こいつはどんな仕組みで動いているんだ」と考えるのも一つ。あるいは「いったいぜんたい、無機物しかなかった太古の地球から、どのような経緯でこんな複雑なモノが誕生したんだ」と問うのも一つ。もちろんこの二つの問いは無関係じゃないけど、それでも一応異なった理解のあり方を指し示している。実際、今日の学問分類では、前者のような問いは生理学や発生・分子生物学などといったいわゆる「ライフサイエンス」、後者の問いは進化遺伝学、古生物学や生態学などの進化系生物学で扱われるのが一般的です。

同様に、「科学を理解する」にも様々な方法がある。

まず、生物と同様、科学も様々なパーツ(法則・概念・測定・実験装置などなど)の複雑な絡み合いによって動いています。そうしたパーツが理論的にまとめ上げられることによって、ある現象が説明される。科学哲学の一つのゴールは、こうした科学の内的な「ロジック」ないし「メカニズム」をできるだけ明らかにすることです。この説明にはどんな概念・法則が使われているのか?理論的概念と観測された現象の間の依存関係は?ある学問分野に特有で、それを他と分けるような特徴は存在するのか?あるいは、すべての学問に共通するような「科学のロジック」のようなものはあるのか?

例えばポパーは、すべての科学は仮説の反証によって進む、だからすべての科学理論は反証可能でなければならない、と主張しました。これはいわば、「すべての生物はATGCからなるDNA塩基配列にその遺伝情報を有する」みたいな一般命題の科学哲学版だと言えます。つまり、(すべての)科学的営みはかくかくしかじかのものとして特徴付けられる、という仮説です。結局今ではポパーのこの考えはあまりうまく行かないということになってますが、それでも科学をその内的なロジックから理解しようという科学哲学の目的を良く表していると思います。

次に、別の視点からのアプローチとして、社会的、経済的、文化的コンテキストなどといった「科学外」の要因から科学の発展と活動を理解する試みがあります。再び生物の例を出せば、これはある生物種がどのような環境要因によって一定の形へと進化していったのか、という問いと似ています。つまり、科学をその内的なロジックからでなく、外界への反応として理解するのです。例えばパラダイム論で有名なクーンは、科学理論の変遷(「パラダイムシフト」)は論理的な反証によって引き起こされるのではなく、科学者コミュニティにおける心理的・社会的な要因(惰性や世代交代)に依るところが大きいと論じました。また近年ではダーウィン研究が盛んですが、その先鞭をつけたDesmond & Moore (1994)の『Darwin: The Life of a Tormented Evolutionist』は、進化論の着想をダーウィンの生きたビクトリア朝時代中産階級の文化・価値観から分析して話題になりました。

そんなわけで、一口に「科学を理解する」といっても複数のやり口があり、これが他の学問と同様、分野の多様性(あるいは「非一枚岩性」)を生み出しています。大まかに言って、狭義の科学哲学(Philosophy of science)では前者の内的アプローチ、一方で科学技術論(STS: Science and Technology Studies)では後者の外的アプローチが主流です。ただだからといって、両者が無関係であるというわけではもちろんありません。生物進化を理解するにはその生理・発生メカニズムを知っておく必要があるように、本来この二つのアプローチは最終的には統合される、ないしされるべきものなのかもしれません。ただ、既に科学という対象だけでも十分巨大なので、一人の学者が両者を自由に使いこなすのはなかなか難しい、というのが現状だと思います。

私自身の専門は前者の狭義の科学哲学、特に進化生物学を中心に扱っています(例が生き物ばっかりなのはそのためです)。だから、進化生物学の概念や理論を研究してます。でも、ちょっとまてよ。進化論がどんなロジックでどのように生物進化を説明するかを一番知っているのは、それを実際に使っている当の生物学者じゃないの?そこに門外漢の哲学者が介入する余地があるの?

これはもっともな問いで、実際、こうした理由から我々科学哲学者が科学者から煙たがれることは良くあります。しかも、一面においてこれは正しい。科学者は、自分のやっていることを熟知しているはずです。でもだからといって、その理解がすべてという訳ではない。

例えば、スポーツを実際にするのはスポーツ選手自身です。優秀なサッカー選手は、どうやったら的確にパスを出し、シュートをし、得点につなげられるかということを知ってなければならない。しかしその一方で、プロのスポーツ評論家、あるいはスポーツ科学というものがあります。こうした分野に携わる人は、必ずしも自身がスポーツ選手である必要はない。むしろ栄養学や生理学、医学、はたまた物理学や統計学の専門家で、最も効果的な戦略は何か、あるいはどのようにしたら選手が最高のパフォーマンスを出すことができるか、ということを研究します。いわば彼(女)らは、選手自身とは別の仕方で、スポーツについての知識を持っているわけです。そして実際のところ、現代スポーツはこうした複合知によって成り立っているとすら言えます。

私は、科学哲学にも同じような役割が期待できるのではないかと考えています。つまり、それは科学者当人とは別の仕方で、恐らく少し離れたところから、しかし包括的に、科学を理解できるのではないか、と。そう考えると、すごく興奮してきませんか?だって、哲学って煎じ詰めれば「知るとはどういうことか」を考える学問でしょ。で、科学っていうのは現代において一番大きい「知」の祭典、いわば世界中の天才・秀才たちが切磋琢磨した己の技を披露する知のオリンピックみたいなもんでしょ。それをアリーナ席で分析しながら、場合によってはその舞台裏にまで入っちゃう。これ以上に「知る」という営みに肉薄することが他にあるかしらん?

というわけで私個人としては、科学哲学はエキサイティングで、同時に役に立つ学問だと思うのです。正確を期せば、役に「立ち得る」でしょうか。「科学を論じる」といっても当然様々なレベルがあります。スポーツを論じるにしても、選手や監督自身もうならせる試合分析を見せる評論家がいる一方、外野からただあーだこーだとまくしたてる素人オヤジもいる。後者は居酒屋でやる分にはいいけど、実際のプレイヤーからしたらハタ迷惑以外の何ものでもないでしょう。科学哲学の現状はどちらか?正直な話、玉石混淆だと思います。実情に即した有益な考察がある一方、「ぼくのかんがえたさいきょうのかがくりろん」みたいなのも確かにある。いや、自分の分野を見回すとむしろこうしたのも結構ある。残念ながら、これが「科学哲学は無用いやむしろ有害」という一部科学者の評価に繋がっているのだと思います。これは真摯に受け止めなければならない。哲学徒の一人である私としては、こうした批判を受け止めた上で、科学と哲学のより有益な協同関係を目指して、努力していきたいと思っています。

 


 

2014.9.22 一部修正しました。

2014.9.23 思いの他沢山の方々に読んでいただいているようで光栄です。お礼ついでに、一つコメントを。最後の段落は、同時に「科学哲学を論じる人々」についての暗示になっていることをお忘れなく。巷には一部の極端なサンプルから全体を論じるような「ぼくのかんがえたさいきょうのかがくてつがく」が散見されますが、そういう決めつけは的外れな科学哲学と同じ位滑稽で無益であると言っておきます。「汝が深淵を覗くとき、深淵もまた汝を覗いているのだ」(・・・って科学哲学は深淵なのか?)