大塚淳のサイト跡地

サイト引越し

下記アドレスに引越しました(当面、等ページはブログだけ残します)。

https://u.kyoto-u.jp/junotk

文化の内なる魚

この文章は、京都大学文学部同窓会誌『以文』60号 (2017) に寄稿したものを転載したものです。


 

思いがけず、この4月から学部・院生時代を通してお世話になった哲学専修に戻ることになった。思いがけないというのは、「生物学の哲学」という日本ではまだ特殊でニッチな響きすらある自分の専門が、京大哲学の学風にマッチするとは思っていなかったからである。かような研究をしていると、どういう経緯でその分野を選んだのかとよく聞かれる。ここで、昔から生き物が好きで、とでも言えば話も収まるのだろうが、残念ながらそういうわけでもない。むしろ実際はまったくの偶然で、修士のとき、アメリカから来ていた当該分野の先生の公演を聞いて、ほうそんなものもあるのか、と興味をもったのが始まりであった。しかしそれを言い出したらそもそも哲学に関心をもったのも、単に楽だからと聞いて選択した高校の倫理の授業がきっかけだった。だから「生物」も「哲学」も、結局、偶然の産物といえる。しかし、学部時代に勉強していたスピノザに言わせれば、そう思えるのは単に私の認識の至らなさゆえであって、本当はすべてが必然なのかもしれない。仮にそうだとしても、有限な我々には物事はバラバラな点としてしか見えないのであって、それゆえそこに必然性の線を引きたくなるのであろう。

それは生物とて同じことである。生命の進化は、常に偶然に左右されてきた。我々人類を含む哺乳類がこれほど繁栄するようになったのも、6500万年ほど前にたまたま隕石が地球に衝突し、それまで地上を闊歩していた恐竜が絶滅してしまったからにすぎない。ダーウィンの種分化の理論と自然選択説は、このように偶然に支配される生物世界に、必然性の糸を通す法則である。その鮮やかな例の一つに、フォン・ベーアの法則と呼ばれるものがある。ヒトや鳥、魚など、多くの動物は、成体は非常に異なるにも関わらず、発生初期の胚を見るととても類似している。それは俗に言われるように、「個体発生が系統発生を繰り返す」からではない。むしろ有力な説によれば、これは進化が累積的に進むことの必然的帰結である。生物は、その場その場の環境において、それまでの発生過程に新たな段階を「積み上げる」ことで進化・分岐してきた。その結果、過去の進化の産物はどんどん発生初期に深く沈殿していき、幅広い種で保存されることになる。ちょうど、高く積んだ積み木の土台を動かすのが難しいように、古い形質は歴史によって深く踏み固められ、容易には変われない。こうして生じる異種間の相同性を、古生物学者のニール・シュービンは「我々の内なる魚」と呼んだ。

さてこの「踏み固め」、生物に限らず、およそ累積的な変化を経てきたシステムであれば、どこでも生じえる現象である。たとえば、会社や役所など、そこそこの歴史を持つ社会組織には、一見何のためか分からない取り決めがそこかしこにあって困惑するが、これもその組織の進化の中で踏み固められ、沈殿した過去の残滓だといえよう(私は別に某大学のことを言っているのではない)。

もっと広く視点をとってみれば、人類の文化や学問も、また絶え間ない変更を受けつつ綿々と継承されてきた進化の産物である。有史以来、いやそれ以前から、人類の知は複雑に進化し、多様に枝分かれしてきた。今日の我々の生活を支える社会制度や科学も、その枝の一つ一つである。こうした見方に立てば、一般に考えられている大学の役割は、この知の最前線、文化系統樹の枝先を、より高く広く育んでいくことだといえるだろう。しかし、それだけが大学の使命だろうか。生い茂る木の根元に目を落としてみれば、そこには我々の文明の祖先としての文化遺産がある。そうした歴史は、アウストラロピテクスのように、化石(資料)として当時の面影を残すのみで、そこに現代の華やかさはない。しかしそれは決して死に絶えたのではなく、むしろ文明の「内なる魚」として、現代文化の中に脈々と息づいているはずである。

私は、文学部の役割の一つは、このような文化の源流に陽の光を当て、その意義を明らかにしていくことだと思う。折しも今日、人文系学問は風当たりが強く、古典ばかり読んで何の役に立つのかというような揶揄もしばしば聞かれる。しかし仮に役に立たないとして(私自身は非常に役立つと思うのだが)、安易に取り去ってよいものだろうか。生物に話を戻してみれば、発生初期段階の異常は、大抵致死的である。前述したように、だからこそそうした形質は幅広い種において保存されてきたのである。長い進化の過程で残っているものは、たとえそれが必ずしも明らかでないとしても、それなりの理由があって残っている。その理由を明らかにすることが、進化生物学の使命である。だとすれば我々人文学者の使命は、現在に伝わる文化資産の意義を詳らかにしていくことだろう。願わくば、それが絶滅してしまう前に。それは決して、技術の進歩や画期的な発明にはつながらないかもしれないが、依然として重要な大学の役割だと、私は信じている。

 

Weisberg教授講演会

来る10月21日(土)に、U Penn哲学教授で近刊『科学とモデル』の著者でもあるMichael Weisbergを招いて以下のように講演をします。

またWeisbergはBiology & Philosophy誌のChief editorでもあり、同日は同誌を含め国際論文投稿にむけたワークショップを午前中から開催いたしますので、こちらも奮ってご参加下さい。

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Biology & Philosophy 論文投稿ワークショップ

10月10日追記:ワークショップ後にWeisberg教授に研究講演を行っていただけることになりました。こちらも奮ってご参加下さい。どちらか一方の参加も歓迎いたします。

来る2017年10月21日(土)に、Biology & Philosophy誌の編集長であるMichael Weisberg教授(UPenn)を招いて、国際論文投稿・掲載のためのワークショップを行います。

BiolPhilos

Biology & Philosophy誌は、その名の通り生物学と哲学をつなぐ文理横断的領域を扱うジャーナルとして80年代に創刊され、現在は分野のフラッグシップ誌として、概念的問題に関心のある生物学者、生物学的問題に関心のある哲学者、またそれ以外の融合型研究など、様々な分野からの投稿を受け付けてきました。

今年度より編集体制を一新し、近刊『科学とモデル』(名古屋大学出版会)の原著者でもあるMichael Weisberg教授が編集長に就任し、私大塚も編集委員に加わることになりました。そこで、アジアからの投稿数を増やしたいというWeisberg博士の希望により、まず日本で、ジャーナルの概要や投稿プロセス、互いの研究やサジェスチョンなどについてざっくばらんに話合えるような機会を設けることになりました。「生物学と哲学って何の接点があるの?」という方から、「学際研究は興味があるけどネタが・・・」、「ネタはあるけど英語が・・・」、「やる気だけはあるけど他は・・・」という方まで、これを機にぜひご参加いただき、国際的学際研究へのステップとしていただければ幸いです。なお、参加資格・専門分野に制限はありません。

当日はWeisberg教授による説明の他、参加者の方々の自己紹介・質問・お悩み相談・研究紹介などの時間を予定しています。特に、B&P誌への投稿に興味がある方の研究紹介を募集いたします。発表を希望される方は、できるだけ早めに、下記の参加フォームより、発表内容について簡単にお教え下さい。通常の学会発表というより、むしろ論文投稿へのシーズとなるようなものを歓迎いたします。数にもよりますが、だいたい一人10分程度の短い紹介&ディスカッションを予定しています。なお、枠の関係上、希望者が多い場合は発表をお断りすることもあるかもしれませんが、どうぞご了承下さい。可否については、今月末までにメールでご連絡いたします。

参加登録フォームへのリンク

また発表せずに参加だけしたい、という方も、人数把握の都合上、上記フォームよりご連絡いただけると幸いです。もちろん飛び込み参加も歓迎です。

以下が詳細なスケジュールです。

場所:京都大学文学研究科 地下1階大会議室(地図
日時:2017年10月21日(土)

10:00~10:15 Opening remark (Otsuka)
10:15~11:30 Overview of the Journal + Q&A (Weisberg)
11:30~12:30 Short introduction (participants)
Lunch break
14:00~15:50 Research presentations & Discussion
15:50~16:10 Concluding remark (Weisberg & Otsuka)
Break
16:30~18:00 Weisberg talk
(※ 終了時間を変更しました)

論理学講読

2015年後期 | L051/2 | 学部シラバス

授業テーマ

哲学をするにあたり、論理学の知識は必要不可欠である。本演習では、まず始めに論理学に関する概観を得たのち、教科書を読み進めることで論理学の基本的知識を身につけることを目的とする。

基本情報

  • 授業:月4(前期とは異なるので注意) @ 人文学研究科B133
  • オフィスアワー:木 2:30-3:30 @ A423. それ以外は要アポイントメント
  • 教員:大塚淳 (x@lit.kobe-u.ac.jp, ただし x=jotsuka)

教科書

  • D. Papineau (2012), Philosophical Devices: Proofs, Probabilities, Possibilities, and Sets 後期は Part 4 から読み進める
  • R. M. Smullyan (2014), A Beginner’s Guide to Mathematical Logic, Dover Publications

成績評価

  • 発表(50%)
  • ディスカッションへの参加(50%)

Causality

2015 Fall | L049 | 学部シラバス

Announcement 

  • 成績をうりぼーネットにアップしました。レポートを出した方は研究室(A423)まで来てくれたら返却します。

 

Theme
「喫煙は肺がんを引き起こす」「温暖化の主要因は二酸化炭素である」「食後にコーヒーを飲んだので寝付きが悪い」・・・我々は日々こうした因果的主張を耳にしたり、行ったりしている。しかしある事象が他の事象の原因である、とは正確にはどういうことだろうか。本授業では、近代から現代に至る因果性に関する哲学的議論を紹介するとともに、それらの哲学的議論と統計学における各種の手法、例えば相関、回帰分析、因果モデルなどとの関連性を論じる。なおレクチャーは主に英語で行う予定。

Basic information

  • Class: Wed 2nd period (10:40-12:10) @ B231
  • Office hour: Thu 2:30-3:30 or by appointment
  • Contact: Jun Otsuka (x@lit.kobe-u.ac.jp, where x=jotsuka)

Textbook

  • Provided in class

Evaluation

  • Attendance and participation (10%)
  • Quizzes (30%)
  • Final report (60%)

Planned schedule (subject to change)

Subject (with link to handout)
Assignment
10/7
10/14
10/21
The Modern Skepticism Hume EHU
10/28
Mill’s methods and Mackie’s INUS Mackie
11/4
Russell
11/11
Pearson and correlation
11/18
Regression Note on probability 

Answer keys

11/25
Probabilistic causation (ver 2) SEP article (Sec. 1,2)
12/2
Probabilistic causation (cont.)

Process causation

Salmon, Production and propagation (- Sec. 2)
12/9
Counterfactual theory SEP article (Sec. 1-3)
Homework 02
12/16
Counterfactual theory (cont.) 

Follow-up on causal influence

HW 2 due

HW2 answer keys

12/23,30, 1/6
~ winter break ~
1/13 CANCELED
1/20
Randomised Control Trial Link to suggested reading
Report prospectus due
1/27 Causal graph theory (revised) Suggested reading: Otsuka (2010)
2/3  FROM 10:50~  Conclusions

科学哲学・科学思想史演習

2015年後期 | L050 | 学部シラバス

授業テーマ

知識とは、合理性とは、実在とは何か。今日、こうした古くからの哲学的問題を考えるにあたり、科学を無視することはできない。なんとなれば現代においては科学こそ知識や合理性を体現し、また世界の実相を明らかにするものと考えられているからである。しかしそれは本当だろうか。また本当だとしたら、何が科学を特権的なものたらしめているのだろうか。科学の本性を探る科学哲学は、20世紀以降の英米系哲学の発展に大きな影響を与えてきた。本演習は、科学哲学における代表的な論文を読み進めることで、科学哲学への理解を深め、その哲学的含意を探ることを目的とする。

各受講者には、関心のある科学哲学の論文を数点選び、それについて分析・調査・発表してもらう。扱う論文のリストは初回授業時に配布するが、受講者の希望があればそれ以外のものも考慮する。

基本情報

  • 授業:火1 @ 人文学研究科B133 A422
  • オフィスアワー:木 2:30-3:30 @ A423. それ以外は要アポイントメント
  • 教員:大塚淳 (x@lit.kobe-u.ac.jp, ただし x=jotsuka)

教科書

  • J. A. Cover and M. Curd, Philosophy of Science: The Central Issues

成績評価

  • 発表(70%)
  • ディスカッションへの参加(30%)

スケジュール

  • 10/6 導入
  • 10/13 Popper
  • 10/20 Kuhn, Lakatos
  • 10/27 Scientific Objectivity (SEP article, Chap 1-3)
  • 11/10 Scientific Objectivity 続き
  • 11/17 Scientific Objectivity (Sec 3.3-4.1)
  • 11/24 Hempel, Two Basic Types of Scientific Explanation
  • 12/1 Scientific Explanation (SEP article, Sec 2.4-2.6 4.1-4.4 )
  • 12/8 Scientific Explanation続き (Sec 4.1-4.2, 5.1-5.2)
  • 12/15 Wright, Explanation and teleology
  • 12/22 機能と目的論
  • 1/12 Cover & Curd, 878-889
  • 1/19 Dretske, Laws of Nature
  • 1/26 Cartwright, Do the laws of physics state the facts?
  • 2/2

Kevin Kelly教授講演会

来る6月29日(月)、神戸大学人文学研究科にてKevin Kelly教授(Carnegie Mellon University)の講演会を行います。Kelly教授は現代形式認識論の代表的研究者の一人で、「オッカムのカミソリ」の数理的正当化をライフワークにされています。今回はそのプロジェクトの最新の成果をお話頂きます。皆様ふるってご参加下さい。

時間:2015/6/29(月)午後5:00 – 6:30
場所:神戸大学文学部B棟1階小ホール
タイトル:A Reliabilist Justification of Ockham’s Razor

Kevin T. Kelly, Carnegie Mellon University
Konstantin Genin, Carnegie Mellon University
Hanti Lin, University of California, Davis

Scientists prefer simple, unified, sharply tested explanations over complex, diffuse explanations that rely on multiple coincidences—a bias known popularly as Ockham’s razor.  One can represent that bias in terms of principles or Bayesian prior probabilities, but it is harder to say how such a bias conduces to true belief.   We will present a mathematical argument, based on ideas from topology and learning theory, to the effect that Ockham’s is necessary for staying on the straightest path to the truth, even if that path cannot be perfectly straight.  More precisely, choosing a simplest response to a question is necessary to rule out cycles of belief—affirming, then denying, and then re-affirming a conclusion as inquiry proceeds.  Waiting for information to decide among simplest answers is necessary to minimize reversals of opinion as inquiry proceeds, even though it is impossible to eliminate reversals entirely, due to the problem of induction.  The same ideas can be extended in a natural way to statistical inference, providing a new, frequentist foundation for inductive inference of theories from finite samples.  One important application is the statistical inference of causal information from non-experimental data, which heretofore had no frequentist rationale.

The talk is self-contained, and is intended for a general philosophical and scientific audience.

世話人:大塚淳(神戸大学) x@y where x=jotsuka, y=lit.kobe-u.ac.jp

レンズ職人としての科学哲学者

今、零下10度のニューヨークに来ています。半日時間ができたのでメトロポリタン美術館に行ってみたのですが、コレクションが凄くてびっくりしました。特にエジプト系、ファラオの墓の内壁そのまま持ってきたりとか、色々な意味で半端ないです。フェルメールも4つあったりとか(5つあるって話だったけど4つしか見つからなかった)、久しぶりに絵画鑑賞を満喫しました。

芸術作品は我々に異なった仕方で世界を見ることを教えてくれる、と述べたのはプルーストでしたが、美術館に来ると本当にそうだなと感じます。だってレンブラントの自画像とか、冷静に考えれば単なるおっさんじゃないですか。百歩譲ってセザンヌの静物画のリンゴだって、そこらへんで売ってるじゃないですか。なぜそれを有り難がって鑑賞するのか。恐らく、スーパーのリンゴにも中年のおっさんにも、実は美が宿っている、しかし我々凡才の目にはそれが隠されている、それを芸術家は発見して、我々にも分かるような形で示してくれるのでしょう。つまり我々は絵画という眼鏡を通して日常の美を発見するのです。

科学は芸術とは違うと言われるし、また実際そうでしょう。しかし一方で、似通っているところもあると思います。

科学は我々にいろいろなことを教えてくれます。例えば、地球は回ってるとか、マラリアは蚊によって媒介されるとか、まあそんな類いのことです。しかしそれだけではありません。科学はさらに、我々にモノの見方を提供します。つまり、各科学は独自の「世界観」を持ち、それにしたがって世界を描写します。我々は物理学を学ぶとき、そうした物理学の「眼鏡」を通して世界を見ることを学ぶのです。例えばニュートン物理学の「眼鏡」を通して見た世界は、粒子(質点)とその相互作用からなる世界です。そこに「生物」や「貨幣」といったモノは出てきません。それらを見るためには、生物学の眼鏡、経済学の眼鏡にかけ直さなければなりません。そしてそうした眼鏡で見た世界には、もちろんもはや「質点」は現れず、代わりに「真核生物」や「労働」などがでてくるのです。

「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える」と言いますが、これは多かれ少なかれ、科学を含めたほとんどの人間の認知活動に言えるのではないかと思います。むしろ良い大工(物理学者、化学者、etc.)になるためには、一度すべてを釘(慣性系、化学反応、etc.)として見るようにするための訓練が必要なのではないか、つまりその学問の「眼鏡」を通して世界を見るための訓練を積む必要があるのではないか。そして成熟した学者は、もはや自らの血肉と化したその「眼鏡」を通して見える世界のあり方を研究し、我々に教えてくれるわけです。

さて、で我々科学哲学者ですが、我々は何をしているかというと、その「眼鏡」を研究しているのです。つまり我々の直接の関心は、眼鏡を通して見える世界というより、むしろ科学者がかけている眼鏡自体の性質にあります。この眼鏡をかけると、どのような世界が見えるのか。そこには何が「ある」のか。この眼鏡で見る世界とその眼鏡で見る世界の間には、どのような関係があるのか。どんな眼鏡が「良い眼鏡」なのか。


たとえば、科学実在論という問題があります。この問題は、20世紀に入って物理学者がかけ始めた最新型の眼鏡に起因します。その眼鏡は大層クールで変わっていて、それをかけると「電子」やら「状態の重ね合わせ」やら、それはそれは不思議なものが見えるそうです*1。で、それをかけてはみんなで、「ほらここ電子が通ったでしょ、今波動関数が収縮したでしょ」とか言い合っていたわけなんですが、いったん眼鏡を外して見てみると、どうにもそのギャップがありすぎて、よくわからなくなってしまった。特に、量子力学の眼鏡で見た世界における「ある」ということと、裸眼で見た世界での「ある」ということが、なんか本当に同じなんだろうか、という疑問が生じてきたわけです。あのクールな眼鏡かけると見えるやつ、あれ本当にあるんだろうか、という。そもそも「ある」っていうのはどういう事なんだろうか、とか。

日常でもありますよね、なんかずっと視界に入るけど、あれ何なんだろう、みたいな時が。そういうとき我々はどうするか。眼鏡を外して点検するわけです。つまり眼鏡自体を見るわけです。物理学の哲学者も同じことをしました。つまり、一度かけたその眼鏡を外して、物理学という学問=眼鏡自体の構造を研究しはじめたのです。そうした研究を通して、物理学が描き出す世界を「解釈」しようというわけです。こうした考察を、メタな分析といいます。Metaphysicsのmeta。科学という眼鏡自体が持つ性質を研究することで、それがどのような像を結ぶかを明らかにし、またそこに映る世界を解釈する、これがメタ・サイエンスとしての科学哲学の役割の一つです。

もう一つ、科学哲学における主要な話題に、還元(reduction)というものがあります。これはいわば、異なる「科学眼鏡」をかけたときに見える世界の違いに関する問題です。例えば、ここに一匹のミドリムシがいたとしましょう。生物学の眼鏡で見ると、これは一つの真核生物、生化学的には化学反応の連鎖、物理学的には粒子のぶつかり合いとして表されるでしょう。ざっくり言うと還元とは、じゃあこうした描写は互いにどのように関係しているのか?という問題です。素朴にまず考えられるのは、「まあいろいろな見方があるけど、突き詰めれば全部粒子のぶつかり合いだよね」という立場です。我々の比喩に戻すと、「いろいろな眼鏡があるが、物理学の眼鏡が一番汎用性が高く、かつ精度が良い」という感じでしょうか。これは一般に物理主義(physicalism)と呼ばれる、すべては物理学に還元可能である、という立場です。一方これに対しては、「それぞれの眼鏡には長短があり、場合と用途に応じて使い分けるべきである、どれが一番というのはない」という多元主義(pluralism)の立場があります。

還元主義にまつわる議論がしばしば熱を帯びるのは、何らかの意味での「良さ」の考察を避けて通れないからです。それは物理主義でも多元主義でも同じ事です。これををさらにラディカルに突き詰めていくと、そもそもどうやって違う理論間の優劣を決めるのか?という問題に行き着きます。科学的世界観=眼鏡の「良さ」の客観的基準とは?結局どの科学も、さらには神話や「ニセ科学」も、それぞれ「モノの見方」にすぎなくて、その間に優劣はないのでは?いわゆる「相対主義」というやつです。類似問題として、ある分野において大幅な理論的変更が起こって、その前後で科学者が一斉に違う眼鏡をかけ始めたとき、我々はそれを改良といえるのかどうか、つまりいわゆる「パラダイム・シフト」あるいは「科学革命」の前後で科学は進歩したと言えるのか、という問題があります。

ここではこれらの問題に答えるのが目的ではありません。むしろ言いたいことは、そうした問いに答えるためには、「眼鏡」の一般的な構造と目的を良く理解しなければならない、ということです。つまり、科学とは何か、それはどうあるべきか、ということについての理解です。こうした理解は、単に科学と非科学を区別するだけでなく、実際の科学的実践においても重要になってきます。それはある新しい科学、つまり眼鏡が開発されたときです。例えばダーウィンの進化論は、単に内容だけでなく、その考え方においても新しいものでした。彼は進化論によって、生物の多様なあり方を「共通祖先からの進化」という新しい視点から分析することを提案したのです。しかし彼の理論は、観測や実験を主とする当時の科学のあり方とはかけ離れたものでした。生命の進化という一回きりの歴史的事象、しかも直接観察も実験もできない事象についての理論は、はたして科学と言えるのか?ダーウィンは彼の仮説が正真正銘の「科学」であることを示すために、同時代の科学哲学(例えばWhewellやHerschel)を援用することを厭いませんでした。つまり、彼らは科学=眼鏡とはかくあるべきだと言っている、そして自分の進化論はその基準を満たしている、だからそれは良い眼鏡なんだ、というように、自らの理論の「科学性」を正当化したわけです。


このように、科学哲学は決して机上の空論ではなく、まさに「現場で起こっている」ことなのです*2。「現場」とは、素粒子物理学とか脳神経科学とか、つまり一つ一つの科学分野です。そのため現代の科学哲学者は大抵、それぞれの「個別科学の哲学」を専門としています。例えば私は、進化生物学に関心があって、その概念的枠組みを研究しています。進化生物学では、1930年ごろに理論的な「総合」(Modern Synthesis)が起こり、ダーウィン進化論とメンデル遺伝学をベースに生命の進化を包括的に扱うための枠組みができました。それ以来、進化生物学は多かれ少なかれ、その「総合眼鏡」ないしその部分的改良版をかけて生物を研究してきました。なので私の第一の関心は、その眼鏡の性質と限界を明らかにすることです。また近年、進化生物学の内外から、この枠組みについていろいろな不満がでてきました。例えば、この眼鏡だと長いスパンでの進化予測ができない(遠目が効かない、みたいなもんでしょうか)とか、生物の発生に関することが全く見えないとか、そういうクレームです。そこでもう一つ新しい総合(New/extended Synthesis)が必要なんじゃないか、とかいう話もチラチラでてきています。しかしこういう議論は常に賛否両論がつきまといます。古くからの愛用者には、いや、俺の長年使ってた眼鏡に余計なことしてくれるな、という人もいるし、「見えない」といわれてるモノも実は眼鏡の問題じゃないんじゃないか、という可能性もある。これを見極めるためにも、現在使われている眼鏡を研究して、必要であれば改良を加えていく、ということが我々進化論の哲学者の使命の一つなんじゃないかと思っています。

つまり、レンズ職人としての科学哲学者。かつて17世紀の哲学者スピノザは、哲学研究の傍ら、科学者が実験で使うためのレンズを磨いて生活の足しにしていたと言われています。スピノザのレンズは、精度が良いということで重宝されていたようです。なにかここには、特別な意味があるように思えてなりません。つまり、哲学という営みは、科学の目を研ぎ澄ませていく作業とどこか深いところでつながっている、あるいはさらにいえば、それに何らかの意味で支えられているのではないか。

あ、でもこれには落ちがあって、実はスピノザはレンズ磨きの粉塵で肺をやられて夭折したとも言われてるんですよね。ということはひょっとしてこの話の真の教訓は、科学哲学なんてやってると早死にするぞ、っていうことだったり・・・。とはいっても前回ご紹介したSuppesにせよ、科学哲学者は結構しぶとく生きる(笑)ので、実際はそんな心配はあまりなさそうですが。

 

*1:そうです、というのは、恥ずかしながら私は実はまだちゃんとかけたことがないんです。

*2:実は今私がNYCにいるのも、イェール大学の生物学者を訪ねての帰り、つまり「フィールドワーク」の帰りです。

Patrick Suppes (1922 – 2014)と測定理論

先日17日、スタンフォード大の科学哲学者、Patrick Suppes(スッピス)が亡くなられたとの報が入ってきました。享年92、ご高齢であったとはいえ、半年前にスタンフォードで行われたイベントではとてもお元気そうで、並みいる講演者を押しのけて誰よりも一番喋っていた(笑)ので、突然の知らせに驚きました。いずれにせよ、科学哲学界にとって大きすぎる損失であることには変わりません。

Suppesはいわゆる「ルネサンス型」の天才肌でした。彼が手がけた分野は、論理学、集合論、測定理論、確率の哲学、物理学の哲学、意思決定理論、言語学、心理学、脳神経科学、計算機科学など多岐にわたります。また彼はいち早く(60年代から!)、教育現場におけるコンピュータの活用に着目し終生それに携わってきた人でもあります。彼の全論文と、バイオグラフィーは彼のホームページからダウンロードできます。

私はSuppesとは直接的な面識はないのですが、ここしばらく彼の著作を読み込んでいたということもあり、自分の中では非常に大きなウェイトを占めていました。間違いなく、最も尊敬する同時代哲学者の一人でした。そんなわけで今回は、学恩を確認する意味も込めて、彼の仕事の一片、そのなかでも日本ではあまり知られていない測定理論について少し書いてみたいと思います。といっても、私はこの分野を専門とするわけでも、しっかりと理解しているわけでもないので、必然的に表面的、場合によっては不正確なものになるかもしれません。あくまで、自分の気持ちと理解を整理するためのメモ程度のものということで、あしからず。

さて、哲学者とはおよそ色々なものに興味を持つ人間ですが、その関心の一つに、「世界はどのように記述されるべきか」という問題があります。「自然は数学で記述されている」と言ったのはガリレオでした。当時これが何でそんなにセンセーショナルだったかというと、実はそれまでのアリストレス的な枠組みでは、数学とは純粋な観念世界あるいは我々の思考の産物であり、それが世界の客観的構造を映し出すなんてあり得ない、と考えられていたからです。こうした考えは、当時におけるザ・数学、ユークリッドの『原論』を見るとなんとなく納得できます。だって、「部分を持たないもの(=点)」とか「幅のない長さ(=線)」とか、我々の思考の外にあるはずがないじゃないですか?

そんなわけで、アリストレス的には数学でもって自然を記述するなんて御法度だったのが、ガリレオが物理運動は数学的に結構上手く記述できることを示しちゃった。でも何で上手くいったんでしょうか?なぜ「自然は数学で記述されている」の?これを字義通り取ったのがデカルトです。自然が数学で記述されているのは、神が世界を創造したときにそう創ったからだ、と。実のところデカルトによれば、神は世界だけでなく数学や論理自体も一緒に創っちゃったんですよね(いわゆる「永遠真理被造説」)。だから自然が数学で記されているのも当然っちゃあ当然*1。君のiMacにもiPhoneにもリンゴマークが刻まれてるのと同じ位当然。

しかしながら当然、現代に生きる我々としてはこの答えで満足するわけにはいかないわけです。だって誰も見てないですからね、神が微分してるとこ。では、もっと経験主義的な観点から、諸科学における数学の利用を正当化できないのか。測定理論は、こうした関心に答えるものです。

「自然が数学で記述されている」というのは、もうちょっと具体的に言うと、モノの性質が定量化できるということです。例えば、長さや重さといった性質。我々はやれ何センチだ、何キロだ、とか計っては一喜一憂するわけです。さらにそうした定量化された性質には、一定の数学的関係をしくことができます。例えば、最盛期の小錦関は舞の海関の3倍の体重があった、とか(適当です)。つまり y = 3x、ただしyは最盛期の小錦の体重、xは舞の海の体重とする、みたいな。

えー、で問題は、なんでこんな事が可能なのか?ということです。そんなん決まってる、定規や体重計で計ってるからだろ、と言われるかもしれません。じゃあ、定規で計る、とはどういうことでしょう?実のところ、我々が、何々はxメートルである、と言うときに最終的に意味しているのは、その何々とパリに保管されているメートル原器をx個つなげたものとを隣り合わせに置いたら、(ある誤差の範囲で)両者はピッタリと並ぶだろう、ということに他なりません。でも長さを計るたびにパリ旅行するわけにもいかないので(そうなったらいいけど)、我々はそのレプリカ(つまり定規)で代用しているわけです。

つまり何が言いたいかというと、最終的に、モノを計るということは、あるものと別のあるものを比較することに他ならないということです。長さだったら、両者を横並びにしてどちらが長いか決める。重さだったら、天秤を使う、というように。こういう作業を繰り返すことによって、物事の間の順序関係ができます。つまり小学校の背の順みたいなやつです。つまり、「~<」を「少なくとも同じだけ長い(高い)」とすると、クラスの全児童a, bについて a~<b ないし b~<a、という関係を得ることができるわけです。これが前提とするのは、クラス内のどのペアをとってきても、どちらの背が高いかを(タイを含めて)一意的に決めることができる、ということです。

長さに関してはそれ以外にも重要な性質があります。それは、メートル原器のところで見たように、モノの長さは繋ぎ合わす(concatinate)ことができる、という点です。つまり 「a君とb君を縦に並べたモノ」というモノが存在して(これをa&b君としましょう)、これについても長さを考えることができます。そして当然、この「a&b君合体物」がa君やb君単体より短いことはありません。つまり任意のa, bについてa&bが存在し、a ~< a&b かつ b ~< a&b。

このように、モノの長さとその比較という作業、つまり「測定」という作業には、どうやら一定の法則性がありそうです。これを、「モノの集合はその長さについて一定の公理を満たす」と言います。本当は上の二つの他にも要件・法則があるのですが、とにかくある系がこのような法則を満たすとする。測定理論のキモは、こうした現実の事物(例えば小学生)からなる系が、数、とりわけ実数の系と同じ構造をしていることを示す、ということにあります。かっちょ良く言うと、小学生系とある実数系の間に準同型写像(homomorphism)が成立する、と言います。そしてこうした準同型性を示す定理を、表現定理(representation theorem)と言います。

準同型写像は、児童一人一人にその身長としてある実数を割り当てる関数に他なりません。これをfとしましょう。f(a)はa君の身長です。これが準同型と呼ばれるのは、児童間の関係性、つまり「~<」が、実数間の大きさ関係である「=<」(同じかより大きい)と対応するからです。つまり任意のa, bについて、a ~< bのとき、そのときに限り、f(a) =< f(b) が成立するわけです。さらに足し算も使えます。つまり繋ぎ合わせ操作である「&」が、二つの数の足し算である「+」に対応するわけです。 つまり任意のa, b, cについて、a&b = cのとき、そのときに限り、f(a) + f(b) = f(c)。

このような次第で、準同型によって、小学生の集団とその間の関係性をあたかも数とその間の関係性として扱うことができるようになります。つまり小学生集団を数学によって記述できるのです。つまり、「なぜ自然が数学によって記述できるのか」という問いに対する測定理論からの回答は次の通りです。すなわち、「それは自然物のある集合(系)と特定の実数系の間の準同型性を示す表現定理が存在するからである。」*2

このように、測定という経験科学の極めて基礎的な問題を扱う測定理論。Suppesは60年代よりこの問題に取り組み、多くの重要な貢献をしました(ただし測定理論自体の歴史はもっと古く、19世紀後半のHelmholtzに遡ります)。とりわけ、Krantz, Luce, Tverskyと共著した三巻立てのFoundations of Measurement I, II, IIIは、現在の測定理論における金字塔となっています。実際、私の測定理論に関する知識はほぼここから来てます。この本、記述は地味ですがとても重要な哲学的問題が扱われている、と個人的に思っています。世界はなぜ数学で記述できるのか?とか、物理法則とは何か?とかが気になる向きには、ぜひ読んで頂きたいと思います。

さて、ここまで読んでいたただいた方(もしいれば、の話ですが)、「それにしても身長が数字で表されるなんてそれこそ小学生でも分かりきったことを延々と・・・哲学者ってよっぽど暇なのね」とか思ってませんか?まあ確かに測定理論はあまりパッと見が派手な分野ではありません。しかしそんなに「分かりきった」話でもないのですよ。もちろん、身長はつまらない例です。でも例えば、心的な指標、例えば「ストレス」や「うるささ」、「痛み」などはどうでしょうか?もともと、測定理論は心理学での種々の実験結果を扱うために発展してきたという歴史があります。つまり誤解を恐れずに言えば、ある分野が「科学化」されるか否かは、対応する測定理論が構築できるか否かにかかっている、という面もあるわけです。

つまり測定理論は、経験科学の礎であり、また同時にパイオニアとしての役割を持っているのです。そしてSuppesは、そのスピリットを体現するように、物理学、脳科学から計算機科学まで、様々な分野を横断して重要な仕事を残してきました。彼のような哲学者は、今後ちょっと出てこないのではないか、とすら思えてしまいます。それほどまでに偉大な才能でした。この場を借りて、心からご冥福をお祈りします。

 


 

*1:ここまでの話は、ほぼ全て私の京大時代の恩師の一人である小林道夫先生からの受け売りです。といっても、昔の曖昧な記憶で不正確な所もあると思うので、気になった方はぜひ先生のご著作を参照してください。

*2:実は、これは測定理論の一面に過ぎません。もう一つの重要な課題は、そうした実数系がどのような性質を持たなければならないかを規定する一意性定理(uniqueness theorem)の証明です。が、これについては別の機会に(あれば)。